朝日日本歴史人物事典 「佐伯子麻呂」の解説
佐伯子麻呂
大化改新の功臣。姓は連。氏は佐伯部,名は古麻呂とも書く。皇極3(644)年1月,蘇我入鹿討滅を謀る中臣鎌足により,葛城稚犬養網田と共に,中大兄皇子(のちの天智天皇)に推挙され討滅の企てに加わる。それは武勇強断,膂力扛鼎のためであり(『藤氏家伝』上),翌大化1年6月三韓上表の日,中大兄と共に殿中で入鹿を殺した。同年9月,古人大兄皇子は謀反が露見し討滅されたが,一説では11月に中大兄の命で,子麻呂と阿倍渠曾倍が兵40人を率い古人を攻め殺したというなど,中大兄の政権樹立に活躍。そのため天智5(666)年3月病床につくと,その功を称えて,天智は自ら見舞った。死後大錦上の位を贈られる。天平宝字1(757)年12月に乙巳(大化1)年の功田が新設されると,上功として40町6段の功田を3世に伝えさせることになった。
(館野和己)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報