日本大百科全書(ニッポニカ) 「倉俣史朗」の意味・わかりやすい解説
倉俣史朗
くらまたしろう
(1934―1991)
インテリア・デザイナー、家具デザイナー。東京生まれ。1953年(昭和28)、東京都立工芸高校木材科卒業。1956年、東京の桑沢デザイン研究所リビングデザイン科卒業。三愛宣伝課、松屋インテリアデザイン室を経て、1965年にクラマタデザイン事務所設立。1981年に、イタリアのデザイナー、エットーレ・ソットサスEttore Sottsass(1917―2007)の率いるデザイン集団メンフィスに参加。同年、日本文化デザイン賞受賞。1990年(平成2)にフランス文化省芸術文化勲章を受けるが、1991年没。
第二次世界大戦後から現在に至るまでの日本のインテリア・デザイン、家具デザインの歴史において倉俣は独自の世界観とセンスで重要な仕事を残してきた。
倉俣の仕事は大きく二つの領域にわけることができる。一つはイッセイミヤケのブティックをはじめとするショップのインテリア・デザインである。また、もう一つは椅子やキャビネット、照明など家具や什器を中心とするプロダクト・デザインである。
ショップのデザインは特定の場所に建設され、特定のクライアントの商品を扱う空間である。しかし、倉俣はいずれのインテリアにおいてもデザイナーとして追求しているテーマをもとにした空間をつくりあげる。たとえば一連のイッセイミヤケのショップで行ったように、ショップ空間を構成する壁、天井、床といった建築的要素を消してしまい、棚や引出し、あるいは光、ガラス、またはカーテンのドレープといった要素だけで演劇の舞台のようにショップを構成するのである。
一方、倉俣による家具や照明は、同じくミニマルな形や素材の限界を追求する。かたちやマテリアルの遊びや歴史的デザイナーへのオマージュを盛り込む。その作品は雄弁で、ウィットにあふれている。
変型の家具(1970)、ランプ「オバQ」(1971)、ガラスのテーブルと椅子(1976)、椅子「ヨセフ・ホフマンへのオマージュ/ビギンザビギン」(1985)、スチールメッシュの椅子「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」(1986)など、一見、一品制作されたアート作品を思わせるような作者のパフォーマンスを感じさせる。しかしそこには、利用者が日常的な生活や行動のなかで使用したり、経験することによって意味が生じるデザインとして、クオリティが保たれているのである。たとえば、1986年制作の「ガラスのテーブル」はひびの入った合わせガラスを天板にしたものだが、実用的であり使用を拒否するものではない。むしろ、生活のなかでこのテーブルが使われることで生じる軋轢(あつれき)やドラマが仕組まれているのである。また、赤いバラがアクリル樹脂に封じこまれた「ミスブランシュ」(1988)は、夢から多くのひらめきを得るという倉俣のイメージをもっとも直接的に表した椅子である。
倉俣による土木的な規模の唯一のプロジェクト、熊本市の大甲(たいこう)橋計画(1990)は、メッシュ状のチューブが橋をまたぐというもの。川をまたぐ橋のさらにその上を人が歩くという荒唐無稽(こうとうむけい)な案であった。実現に至らなかったが、スケールや素材を変えても共通する、デザインに込めた倉俣のウィットである。
[鈴木 明]
『『倉俣史朗の仕事』(1976・鹿島出版会)』▽『『倉俣史朗1967―1987』(1988・Parco出版)』