ハウ(読み)はう(英語表記)Earl Howe, Richard Howe

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハウ」の意味・わかりやすい解説

ハウ
Howe, Gordie

[生]1928.3.31. カナダフローラル
[没]2016.6.10. アメリカ合衆国,オハイオ,トレド
カナダのアイスホッケー選手。本名 Gordon Howe。北アメリカのプロリーグ NHLでの 32年間に及ぶ現役生活を通じて,前人未到の 1767試合に出場し,25年間在籍したデトロイト・レッドウィングズを 4度のスタンリー・カップ制覇に導いた。たぐいまれなパックさばき,両手から繰り出す巧みなリストショット,伝説的な強靭さから「ミスター・ホッケー」と呼ばれた。最優秀選手 MVPに贈られるハート・メモリアル・トロフィーとシーズン得点王に贈られるアート・ロス・トロフィーを各 6回受賞したほか,20年連続でゴール数が上位 5位以内という快挙も成し遂げた。1946―47年シーズンにレッドウィングズでプロ選手としてのキャリアを開始し,最盛期の 1968―69年シーズンには 103得点を上げた。1970―71年シーズン後に引退し,レッドウィングズのフロントに入ったが,新たに発足したプロリーグ WHA(ワールド・ホッケー・アソシエーション)に移り,1973―74年シーズンからヒューストン・エアロズで競技に復帰。エアロズに相次ぐ WHAタイトルをもたらした。現役最後の 1979―80年シーズンには,フル出場で 15ゴールと 26のアシストを記録。1971年にカナダ勲章を受章,1972年ホッケーの殿堂入りを果たし,2008年 NHL功労賞の最初の受賞者となった。

ハウ
Howe, William, 5th Viscount Howe

[生]1729.8.10.
[没]1814.7.12. デボンシャー,プリマス
イギリスの軍人。アメリカ大陸でのフレンチ・アンド・インディアン戦争 (1754~63) に青年将軍として戦功を立てた。アメリカ独立戦争初頭,ボストンに籠城する T.ゲージ将軍支援に派遣され,バンカーヒルの戦いを勝ち,1776年ゲージ将軍の跡を継いで総司令官となった。独走して南方に進出,ニューヨークを落し,フィラデルフィアを占領したが,G.ワシントン軍掃滅には失敗した。この作戦のためニューヨーク北部が手薄となり,77年イギリス軍はサラトガの戦いで大敗を喫し,戦局の動向が定まった。責めを負って総司令官を辞し,本国へ帰国。 (→アメリカ独立戦争 )  

ハウ
Howe, Samuel Gridley

[生]1801.11.10. ボストン
[没]1876.1.19. ボストン
アメリカの教育家,パーキンズ盲学校の初代校長。ハーバード大学医学部に学び医師の資格を得たが,ギリシア革命運動に参加して,6年間ギリシアの軍隊で兵隊として戦い,また国土の復興作業にも挺身した。 1829年帰米,31年にボストン・ニューイングランド盲人収容所設立事業の経営に従事,盲人教育の実地調査のため渡欧し,ポーランド革命に巻込まれて逮捕,投獄されたが,32年ボストンに帰り,プレザント街の父の家で数人の盲児を教育した。これがパーキンズ盲学校の発端である。三重苦の L.ブリッジマンの教育は彼のめざましい成功の一つである。その後はもっぱら精神障害児の環境づくりと治療に関心を寄せた。熱心な奴隷廃止論者であり,また自由土地党員でもあった。

ハウ
Howe, Joseph

[生]1804.12.13. ノバスコシアハリファックス
[没]1873.6.1. ノバスコシア,ハリファックス
カナダの政治家。自由主義系の新聞の編集兼発行人として名をなしたのち,1836年ノバスコシア植民地下院に選出されて政界に入る。ノバスコシアにおける責任政府の樹立を強力に推進し,48年初頭にその実現をみた。 60~63年同植民地政府の首相に就任。ハウはイギリス植民地の連合としてはのちのイギリス連邦のような形態を理想としていたので,北アメリカのイギリス植民地の連合に反対し,ノバスコシアにおいて強力な反対運動を展開した。しかし,69年にはノバスコシア州への連邦政府による財政援助を条件に,連邦政府に入閣。健康を害して 73年に辞任。ノバスコシアへ帰り副総督に就任したが,数週間後に没した。

ハウ
Howe, Irving

[生]1920.6.11. ニューヨーク
[没]1993.5.5. ニューヨーク
アメリカの批評家。ニューヨーク市立大学卒業。スタンフォード大学などで教えたのち,1963年母校の教授。主著は『シャーウッド・アンダーソン』 Sherwood Anderson (1951) ,『ウィリアム・フォークナー』 William Faulkner (1952) ,『政治と小説』 Politics and the Novel (1957) ,『より魅力ある世界』A World More Attractive (1963) ,『新しきものの衰退』 Decline of the New (1970) ,『アメリカ的新しさ』 The American Newness (1986) など。

ハウ
Howe, Elias

[生]1819.7.9. マサチューセッツスペンサー
[没]1867.10.3. ニューヨーク,ブルックリン
アメリカの発明家。父の農場で働いていたが,製粉所や製材所で運転される機械に興味をもち,機械工となった。布を縫う機械の開発を思い立ち,実用的なミシンを完成,1846年に特許を取った。市場開拓のためロンドンに渡り,コルセット製造業の W.トマスに雇われた。2年後,トマスにイギリスでのミシン製造権を 250ポンドで売渡し,志を得ずしてアメリカに帰った。故国では,I. M.シンガーらが,許可なく彼の発明を基礎にしたミシンをつくって販売していたので特許権侵害訴訟を起し,54年訴訟に勝ち,アメリカでつくられる全ミシンの特許使用料を取ることができるようになった。

ハウ
Howe, Richard, Earl Howe

[生]1726.3.8. ロンドン
[没]1799.8.5.
イギリスの海軍軍人。 1740年海軍に入り,55年北アメリカに航海,56~63年イギリス海峡で対フランス作戦に従い,フランス沿岸で活躍。 58年長兄の死によりアイルランド系貴族のハウ子爵家を継いだ。 63~70年海軍省に勤め,75年海軍中将。 76年北アメリカ艦隊司令長官。北アメリカ植民地の独立戦争に同情をもち,78年大陸会議の委員と交渉したが失敗した。 82年イギリス海峡艦隊司令長官。 83~88年海相。 93年イギリス海峡艦隊司令長官に再任,翌 94年フランス=スペイン連合艦隊を撃破した。 88年ハウ男・伯爵家を創設。

ハウ
Howe, John

[生]1630.5.17.
[没]1705.4.2.
イギリスの指導的なピューリタン牧師。ケンブリッジとオックスフォード両大学に学び,グレートトリントンの牧師 (1654) ,O.クロムウェル家の牧師 (56) 。スチュアート家の王政復古の際に追放され,ロンドンで長老派教会の牧師となる。 1672年からは,長老派教会と会衆派教会の合同に尽力したが,成功にはいたらなかった。著書"The Blessedness of the Righteous" (68) ,"Delighting in God" (74) 。

ハウ
Howe, E(dgar) W(atson)

[生]1853.5.3. インディアナ,トリーティ
[没]1937.10.3. カンザス,アチソン
アメリカの編集者,小説家,随筆家。さまざまな職業に従事したのち,19歳で『ゴールデン・グローブ』 The Golden Globe紙を発行し,次いで『デーリー・グローブ』 The Daily Globe紙を編集,刊行しながら,中西部を写実的に描いた小説『田舎町の物語』 The Story of a Country Town (1883) を発表。ほかに,辛辣な警句を特色とする随筆,旅行記,自伝などがある。

ハウ
Howe, Mark Antony DeWolfe

[生]1864.8.28. ロードアイランド,ブリストル
[没]1960.12.6.
アメリカの作家。雑誌『若者の友』 Youth's Companionの編集長 (1888~93,99~1913) ,アトランティック・マンスリー社副社長 (11~29) ,ボストン文芸協会理事 (33) をつとめるかたわら,伝記や詩を執筆,『バレット・ウェンデルと彼の手紙』 Barrett Wendell and His Letters (24) でピュリッツァー賞を受賞。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハウ」の意味・わかりやすい解説

ハウ(Elias Howe)
はう
Elias Howe
(1819―1867)

裁縫用ミシンの発明者。アメリカ東部の農家に生まれる。生まれながらに足に障害があったが、機械好きで明るい性格であった。今日のミシンの縫合原理による裁縫機械を開発し、1846年特許をとり、イギリスのコルセット会社にわずか250ポンドで権利を売却。アメリカで彼の考案を骨格としたミシンがシンガーらによって製造され、特許侵害で争って勝訴し、1867年までアメリカ国内で製造されるすべての裁縫用ミシンから特許料を得た。

[篠原 昭]


ハウ(Earl Howe, Richard Howe)
はう
Earl Howe, Richard Howe
(1726―1799)

イギリスの海軍軍人。イートン校で学んだのち、1739年海軍に入り、45年に尉官任官、七年戦争ではプロイセン側にたってキブロン湾(フランス西部)の戦い(1759)で功があった。その間57年に下院議員に選出され、60年代には政治家として海軍行政にも参画した。70年に少将、ついで中将に昇進し、76年から北アメリカ基地司令長官として、現地のイギリス陸軍総司令官である弟のウィリアム・ハウ5th Viscount Howe, William Howe(1729―1814)と協力して植民地軍との戦闘に従事した。78年にいったん退役。82年、海峡艦隊司令長官に任じられ大将に昇進、貴族に叙せられ、同年秋包囲攻撃の続いていたジブラルタルの救出に成功した。83年から88年まで海相としてピット内閣に参加したのち、フランス革命期に再度海峡艦隊司令長官となり活躍。96年元帥。

[青木 康]

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