日本歴史地名大系 「倉敷村」の解説
倉敷村
くらしきむら
倉敷川(潮川)の上流域に位置し、南部の新田分は備前国
関ヶ原の戦後幕府領となり、慶長六年(一六〇一)の小堀検地によれば、高六一九石余、本田二九町八反余・本畑二六町七反余・本山畑八町八反余で合畝六五町四反余(倉敷市史)。元和三年(一六一七)備中松山藩領となり、同五年の名寄帳では五組に分れ、高六一八石余、田二六町四反余・畠三二町一反余。同年、本村の南に倉敷古新田(己未新田)、同八年にはその南に後新田(辰新田)の開発が行われ、寛永一九年(一六四二)の年貢割付には本田六一九石余、古新田一四四石余、後新田六二一石余とある。同年幕府領に復し、承応四年(一六五五)には後新田東の岡山藩領との入会草野に未辰新田高四〇七石余が開発された(岡山県農業土木史)。天和三年(一六八三)庭瀬藩領、元禄一〇年(一六九七)丹波亀山藩領、同一六年に幕府領となり、宝永七年(一七一〇)駿河田中藩領、享保六年(一七二一)以後は幕府領(年貢割付・村明細帳など)。各藩主ともに幕府中枢に位置する立場であることが注目され、その支配の間も預りの形で幕府預領支配が行われていたとも考えられる。延享三年(一七四六)より倉敷代官所が置かれた。延宝九年(一六八一)の倉敷村御取ヶ付では新田と合せて一千八〇七石余とあり、のち小開発もみられるがほぼ天保郷帳の村高に近い。
倉敷村
くらしきむら
現町域のほぼ中央、
森氏入国後の元和七年(一六二一)津山藩家老の森可春に東作の地七千石が給され、可春は当地に陣屋を置いた(美作一覧紀)。同氏は三信・三隆と代々居館した。元禄一〇年(一六九七)の森氏断絶後幕府領になってからは代官所が設置され、代官内山七兵衛以来明和三年(一七六六)まで機能したが、同六年焼亡し、畑地に転じたという(東作誌)。ただし元禄一四年当地方の一部が甲斐甲府藩主徳川綱豊領になったときは廃止、綱豊が六代将軍(家宣)となるに及んで復活したとされる。正保郷帳に村名がみえ、畑方のみで高五三石余。元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では改出高二四石余、村位は上。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報