倉敷村(読み)くらしきむら

日本歴史地名大系 「倉敷村」の解説

倉敷村
くらしきむら

[現在地名]倉敷市本町ほんまち東町ひがしまち鶴形つるがた一―二丁目・阿知あち一―三丁目・中央ちゆうおう一―二丁目・川西町かわにしまち稲荷町いなりまち南町みなみまち船倉町ふなくらちよう新田しんでん向山むこうやま

倉敷川(潮川)の上流域に位置し、南部の新田分は備前国粒江つぶえ村などと接する。倉鋪・蔵鋪(敷)、一部では倉子城とも記された。湊の町場の拡張に伴い町との併記がなされ、代官の陣屋も置かれ、備中南部の政治・経済の中心地として賑った。中央に標高五〇メートルの鶴形山(古名は内倉島・亀居島・東亀島)があり、海中の島であったと思われ、その北側には鯛原たいばらの地名を残す。この島周辺は、中世末期には高梁たかはし川の沖積作用により干潟になっていたと思われるが、天正一三年(一五八五)宇喜多秀家の家臣岡利勝の築堤により開発されたものであろう(岡山県農業土木史)。永禄九年(一五六六)九月二一日からの新見庄庄使入足日記(教王護国寺文書)に、同二九日のこととして「くらしき」より塩飽しわくまでの費用一五〇文がみえ、舟賃とみられるので、すでにこの頃には瀬戸内航路の湊として存在していた。また天正八年と推定される四月一二日の小早川隆景書状(萩藩閥閲録)に「蔵敷在番之儀」とあるので、毛利氏に属した城が構えられていたと推定される。

関ヶ原の戦後幕府領となり、慶長六年(一六〇一)の小堀検地によれば、高六一九石余、本田二九町八反余・本畑二六町七反余・本山畑八町八反余で合畝六五町四反余(倉敷市史)。元和三年(一六一七)備中松山藩領となり、同五年の名寄帳では五組に分れ、高六一八石余、田二六町四反余・畠三二町一反余。同年、本村の南に倉敷古新田(己未新田)、同八年にはその南に後新田(辰新田)の開発が行われ、寛永一九年(一六四二)年貢割付には本田六一九石余、古新田一四四石余、後新田六二一石余とある。同年幕府領に復し、承応四年(一六五五)には後新田東の岡山藩領との入会草野に未辰新田高四〇七石余が開発された(岡山県農業土木史)。天和三年(一六八三)庭瀬藩領、元禄一〇年(一六九七)丹波亀山藩領、同一六年に幕府領となり、宝永七年(一七一〇)駿河田中藩領、享保六年(一七二一)以後は幕府領(年貢割付・村明細帳など)。各藩主ともに幕府中枢に位置する立場であることが注目され、その支配の間も預りの形で幕府預領支配が行われていたとも考えられる。延享三年(一七四六)より倉敷代官所が置かれた。延宝九年(一六八一)の倉敷村御取ヶ付では新田と合せて一千八〇七石余とあり、のち小開発もみられるがほぼ天保郷帳の村高に近い。


倉敷村
くらしきむら

[現在地名]美作町林野はやしの

現町域のほぼ中央、吉野よしの川と梶並かじなみ川の合流点に臨む。倉敷往来で備前岡山と結ばれ、また吉野川沿いに因幡に通じる古町倉敷ふるまちくらしき道が東に発する。近世は年貢米や各地産物の集散地として賑った。古くは「和名抄」記載の英多あいた郡林野郷、中世の林野保に含まれていたとみられ、「太平記」巻三六の康安元年(一三六一)七月の記事に林野の城がみえる。永禄八年(一五六五)一〇月一八日の河副久盛感状(美作古簡集)ではこの年倉敷を手放すに際して小坂田勘兵衛が忠義を尽したとある。同一一年八月一〇日の浦上宗景奉書(同書)では長瀬与五郎に対し、倉敷のうち江見えみ(現作東町)の寺役などを与えている。天正期(一五七三―九二)にも当地をめぐる江見氏・小早川氏らの動きがみられる。

森氏入国後の元和七年(一六二一)津山藩家老の森可春に東作の地七千石が給され、可春は当地に陣屋を置いた(美作一覧紀)。同氏は三信・三隆と代々居館した。元禄一〇年(一六九七)の森氏断絶後幕府領になってからは代官所が設置され、代官内山七兵衛以来明和三年(一七六六)まで機能したが、同六年焼亡し、畑地に転じたという(東作誌)。ただし元禄一四年当地方の一部が甲斐甲府藩主徳川綱豊領になったときは廃止、綱豊が六代将軍(家宣)となるに及んで復活したとされる。正保郷帳に村名がみえ、畑方のみで高五三石余。元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では改出高二四石余、村位は上。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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