倭文庄(読み)しとりのしよう

日本歴史地名大系 「倭文庄」の解説

倭文庄
しとりのしよう

和名抄」久米郡倭文郷の郷名を継ぐものか。戦国期の史料油木ゆき里公文さとくもん神代こうじろなどがみえ、桑上くわかみ貴布禰きぶね神社は「作陽誌」に庄鎮守と伝えるので、現久米町南部から東部の倭文川流域一帯に推定される。京都賀茂別雷かもわけいかずち(上賀茂社)社領。氏久三位拝賀記(京都大学図書館蔵)によると、正応元年(一二八八)九月六日に逝去した氏久は、社務職を辞退しても死去するまで当庄を知行し、没後は嫡子久世が一円に知行、嫡子太田祝久宗が預所職を知行したとあり、上賀茂社神主が代々領家職を相伝し、その一族が預所職に補任されたと考えられる。その後、神主職とともに久世から弟経久へと相伝されたと思われるが、徳治三年(一三〇八)正禰宜景久(氏久の子)が神主遠久(同、景久の兄か)を差置いて当庄を一円別納に拝領した(「保延より延慶迄庄々宛文」同館蔵)

延文五年(一三六〇)三月一三日、委(倭)文安房守の知行していた公文職が守護赤松貞範に与えられ(「足利義詮下文」富田仙助氏所蔵文書)、明徳三年(一三九二)正月二四日には公文職に加えて地頭職も赤松顕則に与えられた(「足利義満御教書」同文書)南北朝内乱により社領からの納入分が減少したため、当庄年貢担保に正珍より借金をした。しかし納入されなかったためか永享二年(一四三〇)九月二九日、幕府下河内しもこうち(現真庭郡落合町)代官と推定される田中邑坊に対し同庄の年貢から二〇貫文を毎年正珍に渡すことを命じている(御前落居奉書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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