全インド・ムスリム連盟(英語表記)All-India Muslim League

山川 世界史小辞典 改訂新版 「全インド・ムスリム連盟」の解説

全インド・ムスリム連盟(ぜんインド・ムスリムれんめい)
All-India Muslim League

単にムスリム連盟ともいう。植民地支配期のインドと,パキスタンで活動したムスリムの政治組織。ムスリムの政治的進出をめざす運動は1880年代から,アリーガル運動のグループが進めていたが,20世紀になると政党結成の気運が高まり,1906年にダッカでムスリム連盟が創設された。これにはイギリスが密接にかかわったとされる。初期の連盟は大地主中心の不活発な組織にすぎなかった。11年にベンガル分割が撤回され,ムスリムが多数派の東ベンガル・アッサム州が廃止されるとさらに停滞し,ヒラーファト運動の時期にも大きな動きは示さなかった。連盟が活性化するのは,34年にジンナー議長になってからである。37年の選挙では敗北したが,40年にはパキスタン決議を採択。42年の「インドを立ち去れ運動」で国民会議派弾圧を受けた状況を利用しつつ,パキスタン運動を展開し,大衆の間に急速に支持者をふやした。45年の選挙で大勝し,イギリスとの独立交渉では非妥協的な立場を堅持。未曾有の宗派暴動という犠牲を払いながら,47年にパキスタン建国を実現した。独立後,ジンナーとその片腕の政治家があいついで死ぬと弱体化し分解した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「全インド・ムスリム連盟」の解説

全インド−ムスリム連盟
ぜんインド−ムスリムれんめい
All India Muslim League

ヒンドゥー教系の国民会議派に対抗させるため,1906年イギリスの指導で結成されたインドのイスラーム教徒(ムスリム)の政党
東インドのダッカ(現バングラデシュのダッカ)で結成され,初めは親英的であったが,第一次世界大戦後はキラーファット運動を起こして,一時ガンディーの不服従運動に協力。しかし,根強いヒンドゥー・イスラームの対立が続くなか,1924年ジンナーの総裁就任後,再び対英協調路線に転じ,第二次世界大戦中の40年,パキスタンの分離独立を決議し,47年8月これを成功させた。独立後のパキスタン制憲議会では,連盟が絶対多数を占めていたが,1950年代にはいると内部対立が現れはじめ,連盟は徐々に指導力を低下させた。

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世界大百科事典(旧版)内の全インド・ムスリム連盟の言及

【ムスリム連盟】より

…1906年12月,東インドのダッカで結成されたムスリムの政治組織。正式には全インド・ムスリム連盟。19世紀末ごろから,インド国民会議派はイギリスに対して自治・代議制についての要求を高めたが,これに対して,ムスリム間にヒンドゥー優位との不安が高まり始めた。…

※「全インド・ムスリム連盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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