インドの代表的政党。会議派(コングレス)、会議派党とも略称。
[古瀬恒介]
1885年末、当時ベンガル地方を中心として胎動し始めていた民族主義的運動を先取りする形で、イギリスの退役官吏のA・O・ヒュームAllan Octavian Hume(1829―1912)が呼びかけて招集された全インド国民会議All-India National Congressが発端。この会議への参加者はほとんどがヒンドゥーの知識人・地主層であった。しかし、その後、たとえば1905年のベンガル分割法の通過にはっきり表明されたイギリス植民地主義支配の強化は、会議派内部にも「過激派」を生み出した。「穏健派」のW・C・バネルジー、G・K・ゴーカレーらにかわって、B・G・ティラク、B・C・パールBipin Chandra Pal(1858―1932)、L・L・ラーイらが有力になり、スワラージ(自治)、スワデーシー(国産品愛用)とともに英貨排斥といった排外主義的な主張を始めた。会議派の歴史には、その後も内紛、分裂、新党の派生・誕生が繰り返されるが、全体として党勢は伸び続け、インド第一の国民政党として発展した。
第一次世界大戦後、会議派はマハトマ・ガンディーの指導する非暴力的独立運動および社会改革運動と密接な関係を保った。つまり一方で、1920年代初頭の第一次非暴力闘争への参加、1929年会議派ラホール大会での「プールナ・スワラージ」(完全自治)宣言、1930年代初頭の第二次非暴力闘争への参加、1940年代初頭における第二次世界大戦へのインドの自動的参戦拒否、1942年の「インドを撤退せよ」決議など、対英抗争の面でガンディーの路線に従ったばかりか、社会改革の面でも会議派は、彼の「建設的プログラム」の各項目を適時党綱領に取り入れ実行した。その間に会議派は、インド村落の農民大衆をも動員しうる国民政党へと成長していった。
[古瀬恒介]
第二次世界大戦後インドは、内外情勢の交錯する動乱期に、パキスタンと分離する形をとって1947年8月15日に独立を達成した。この過程でも決定的な役割を果たした会議派は、1950年1月26日のインド憲法施行後、第1回総選挙において圧勝し、ネルー政権のもとで、対外面では、先の朝鮮戦争における和平提案に続いて、日印平和条約の調印、バンドン会議の主催と独自の平和外交、非同盟主義に基づく中立外交を積極的に打ち出した。内政面では、議会制民主制を堅持しつつ、経済五か年計画の立案実施、社会・文化・教育面での改革事業に取り組み、「社会主義型社会」の建設に着手した。ネルーの死(1964年5月27日)後、1966年にネルーの娘インディラ・ガンディーが首相の席についた。彼女が組織した会議派内閣においてもネルーが推進した基本路線は踏襲されてきたといえよう。
しかし、1977年の第6回総選挙にあたり、インディラ・ガンディーの強権政治にかねてから反対していたM・デサイらの右派国民会議派が、社会党、ジャン・サング、BLDとともに新たにジャナタ党(人民党)を結成し選挙に大勝し、会議派(インディラ派)は史上初めて少数党に転落した。このうち、ジャン・サングは1951年に結成されたヒンドゥー至上主義のコミュナル政党(宗教セクト)で、1913年創立のヒンドゥー大連合の流れをくみ、民族義勇団(RSS)とも深いつながりをもち、ジャナタ党政権参加後インド人民党(BJP)と改称した。BLDはインド北部ウッタル・プラデシュ州の中農層を代弁するインド革命党(BKD)が、1974年8月にスワタントラ党(自由党)などと合併して結成された政党である。
その後、M・デサイ内閣の内紛が続き、1980年の第7回総選挙では、ふたたびインディラ派が圧勝し、ジャナタ党は中央ばかりか、州議会においても議席数を激減させた。しかし、その後パンジャーブ州を中心とするシク教徒の反政府運動が激化し、84年6月ついに政府軍はアムリッツァルのシク教大本山ゴールデン・テンプル(黄金寺院)を爆破し、同年10月31日のインディラ・ガンディー首相暗殺へと事態は進展した。一方南インド諸州の反中央・反会議派の姿勢をとる地域主義の動きも活発化し、新しく誕生したインディラの長男ラジブ・ガンディー政権の前途は決して平坦(へいたん)ではなかった。
[古瀬恒介]
会議派(ラジブ派)は、1984年12月の総選挙では改選508議席中401議席を獲得し大勝したが、その後の経済情勢の悪化や汚職事件によって党内に亀裂(きれつ)が入り、1989年11月の総選挙で大敗した。そして、中道新党のジャナタ・ダルの短期不安定政権が退陣した後、1991年5月21日第10回総選挙の最中に、ラジブ・ガンディーはタミル人過激派とみなされる者により爆殺された。選挙の結果は会議派が辛勝し、N・ラオP. V. Narasimha Rao(1921―2004)政権の誕生となった。
ラオ政権は、それまでの会議派の社会主義的計画経済、国営部門重視の企業許認可制度を改めて、大幅な経済自由化、民営化を産業諸分野と金融面で打ち出した。しかし、下院野党第一党のインド人民党(BJP)の追い上げと、1992年12月6日にインド中部の聖地アヨーディヤーでヒンドゥー教徒ら約20万人がイスラム教寺院を破壊したアヨーディヤー事件をきっかけとしたイスラム、ヒンドゥー両教徒の宗教的な対立・暴動への対応に苦慮するなか、1993年6月に献金疑惑事件が発覚。ラオ首相は内閣不信任案を提出され、これをようやくにして否決にもち込んだものの、ラオ政権の基盤は大きく揺らぎ、同年11月の地方選、1995年3月の九つの州議会選挙で会議派は惨敗を喫した。同年5月19日、反ラオ首相派の除名処分により、ティワリ派が誕生し、会議派の分裂傾向は一段と強まった。
[古瀬恒介]
1996年の4月から5月にかけて行われた総選挙において、インド人民党(BJP)がついに会議派を破って第一党となり、A・B・バジパイ総裁を首班とする内閣が成立したが、議会の信任を得られず13日の短命内閣に終わった。その後、中道左派連合の「統一戦線」によるD・ゴウダ内閣が発足したが、これも翌1997年4月総辞職に追い込まれ、次のI・グジュラル統一戦線内閣も同年11月に会議派との連立解消で倒れた。
1998年3月の第12回総選挙を戦うにあたって、会議派は排外主義的ヒンドゥー至上主義のインド人民党とその同調者たちがますます党勢を拡張し国民的支持を増やしつつあるなかで、改めて同党がとってきた基本路線を再確認した。その伝統と実績のうえに内外の政治課題を解決するための具体的施策を提示して、国民各層の支持を得ようとしたが、選挙の結果は敗北に終わり、会議派142対インド人民党179と前回と同様その低落傾向に歯止めをかけることはできなかった。
下院第一党となったインド人民党は、連立政権を樹立し、その直後の1998年5月11日と13日に核実験を強行。また、世界の核グループへの公式参加の意思を表明し、内外に大きな衝撃を与えた。これによって、会議派が従来とってきた基本路線の一つである原子力の平和的利用は破棄されることとなった。そのほか、議会制民主制の前提としての排他的コミュナリズム(宗教セクト主義)の排除、政教分離の原則(セキュラリズム)、安定性の確保による発展などこれまで会議派が掲げ実践してきた大原則がインド政治のなかで否定されようとしている。暗殺されたラジブ・カンディー元首相夫人のソニアSonia Gandhi(1946― )は党の強い要請にもかかわらず政界入りを拒んでいたが、1998年の選挙では運動に参加し、会議派の低落傾向に一応の歯止めをかけたことが評価され、同年4月には党総裁に就任した。しかし、1999年10月の総選挙では、バジパイ暫定首相を擁するインド人民党主導の与党連合「国民民主同盟」が296議席、国民会議派および友好政党が134議席という結果で、インド人民党の勝利に終わった。2004年5月のインド総選挙では、バジパイ率いるインド人民党は敗北、国民会議派が与党第一党となった。国民会議派は、同派の総裁であるソニア・ガンディーを全会一致で議員団長に選出、首相就任が確実視されたが、本人が辞退。マンモハン・シンが首相に就任した。インド初のシク教徒の首相であり、過去にラオ内閣時代の財務相、インディラとラジブのガンディー政権の経済顧問など経済分野の要職を多く務めた。経済改革、貧困対策、パキスタンとの対話路線の継続を表明し、二期を務めたが2014年5月の総選挙後に退任。選挙に勝利したインド人民党のナレンドラ・モディNarendra Modi(1950― )が首相に就任した。
このように会議派初期の段階で活躍し、マハトマ・ガンディーとも親交のあったネルーの父モーティーラール・ネルーを含めれば、会議派の1世紀に及ぶ歴史のなかで果たしたネルー家の役割と貢献は絶大でほかに類をみない。とりわけ独立後のインド政界で与党第一党の党首(総裁)としてインドの内政外交を一手に引き受けたジャワーハルラール・ネルー首相の力量と名声、その娘インディラと孫ラジブと続く3代にわたる「ネルー王朝」は、カースト制に通底するインドの伝統的政治文化(カリスマおよび血統・世襲主義)を抜きにしては考えられない。
[古瀬恒介]
会議派の党組織は、全国、州、地方、直轄領の各レベルでそれぞれ意思決定と実行機関をもつ。全国レベルでは、全インド会議派委員会(AICC)、同実行委員会、事務局委員会外務部、コンピュータ局委員会、それに前線組織として、インド青年会議、インド全国学生連盟、インド全国労働組合会議などがある。州、地方レベルでは、州会議派委員会、地方会議派委員会があり、ニコバル諸島、チャンディガルなど六つの直轄領にもそれぞれ会議派委員会を設け、各州に支部をもっている。メンバーの選出は選挙によって行われ、各レベルでの選挙のキャンペーン、党勢の日常的拡大、党費集めなど各地方の党組織網のなかで相互に連携しながら活動している。分裂前は党員数400万人を誇った会議派の数的・質的な組織力の回復、組織浄化と機能主義の確立、中央・地方組織の協力態勢の整備など、国民政党としての会議派のなすべき課題は多いが、一方で国民大衆に直接訴えかける新しい政党イメージの形成とその指導理念の創出が望まれる。
[古瀬恒介]
『坂本徳松著『現代インドの政治と社会』(1969・法政大学出版局)』▽『中村平治著『世界現代史9 南アジア現代史Ⅰ インド』(1977・山川出版社)』▽『山本達郎編『世界各国史 インド史』(1985・山川出版社)』▽『木村雅昭著『インド現代政治――その光と影』(1996・世界思想社)』▽『『アジア動向年報』各年版(アジア経済研究所)』
インドでもっとも古い歴史をもつ政治組織・政党。会議派(コングレス)と略称。1885年12月ボンベイで開催されたインド国民会議がその起源であるが,その結成に当たり二つの潮流が存した。一つはイルバート法案闘争の中でS.バネルジーらを中心に結成された全インド国民協議会All-India National Congressで,これはイギリス側の人種差別行政に反発するインド知識人や中間層を代弁した。他はイギリス人官吏のリベラルな部分であった。この流れを背景に,A.O.ヒュームら退職官吏,すでにイギリスで活動していたD.ナオロージーらが尽力して創設したのが国民会議派で,前記協議会も86年以降これに統合された。
こうした背景から,初期の国民会議派はきわめて限られた階級・階層の利害を代弁する穏健な組織で,しばしばイギリス統治の安全弁といわれた。しかし20世紀初頭〈ラール・バール・パール〉と呼ばれたL.ラージパット・ラーイ,B.G.ティラク,B.C.パールら急進的民族派が主導権を握って展開した1905-08年の〈ベンガル分割反対闘争〉,第1次大戦後19-22年および30-34年のガンディー指導下の〈サティヤーグラハ運動〉を通じて,インド人大衆の反英・反帝国主義運動の中枢的組織へと発展していく。特にこの間ガンディーの独特の主導の下で,P.J.ネルーを先頭とする少数=急進派とV.J.パテールやR.プラサードら多数=保守派が最高指導部として巧みに統合され,州・県・郡・村とつながる確固たる組織網が形成された。しかもこのガンディー=国民会議派保守派の線には,G.D.ビルラーを中心とするインド民族資本の主流が強固に結びつくという構造もつくり上げられていく。農村においては地主階級をも基盤とするこの組織の指導部は,したがって,第1次大戦以降労働者や下層農民が独自の階級的要求を掲げて運動を展開し始めると,しばしばこれを抑止し,指導部と党員大衆の間に利害の対立も生じた。こうした階級的要求実現の闘争は,しだいにインド共産党(1925創立),全インド労働組合会議(AITUC,1920結成),全インド農民組合(AIKS,1936結成)によって担われていった。そして初め国民会議派に所属して活動していた社会主義者や共産主義者たちは,45-47年にこれから離れ,それぞれ独自の政党へと結集していく。国民会議派は決して特定の宗教・宗派の成員のみから成るコミュナルな組織ではなく,すべての住民・領域を統合した形でインドをイギリスから独立させることを望んだが,1930年代後半から急速にムスリム大衆を把握し,ムスリム多住地域の分離を強調するM.A.ジンナー指導下のムスリム連盟との長い交渉を成功させ得ず,結局は現実的な立場からインドの分割を容認することになる。
47年の分離独立後,国民会議派は中央およびすべての州の政権を掌握し,ネルーとパテールの共同による卓越した指導力で安定した政府を樹立し,また外交面では米ソいずれにも偏らない非同盟政策を推進することで新興の第三世界諸国の中での地位を高めた。しかし,土地改革の不徹底による農業・農民問題の未解決,計画(5ヵ年)経済の行詰り,パキスタン,中国との排外主義的軍事衝突と軍事費の肥大,また外国資本への依存の増大などで,死去(1964)する頃のネルーにはすでにかつての精彩はなかった。60年代半ば以降は国民会議派政権下でインドは国内的・国際的に慢性的な危機状態に陥った。67年の第4回総選挙では国民会議派は8州で政権を失った。しかし大統領候補推薦問題および銀行国有化問題がからんで,インディラ・ガンディー夫人=〈進歩派〉とM.デサイ=〈長老・保守派〉間のイデオロギー闘争といわれた69年の国民会議派の〈大分裂〉のあと,ガンディー夫人率いる国民会議派は71年3月の中間選挙で勝利を博した。
同年12月の第3次インド・パキスタン戦争では新生バングラデシュを支援して勝利するが,膨大な戦費の費消により,増税,五ヵ年計画手直し,物価上昇を結果するありさまであった。この時期からガンディー政権は〈貧困追放(ガリービ・ハターオ)〉〈社会主義〉のスローガンを掲げるが,実質的改善は見られず,高まる大衆や野党の不満に対して,75年6月反政府および野党の指導者を逮捕し,非常事態を敷くことによってこれを封じ込む策に出た。しかし1年8ヵ月の非常事態=強権政治ののち,77年3月に実施された第6回総選挙でガンディー会議派は有権者の手痛い審判を受け,4野党合同の新党ジャナター(人民)党Janatā Partyが絶対多数を得て,ここに独立インド政治史上初めて非会議派政党が中央政権の座についた。この選挙は独裁専制に対する民主主義の勝利ともてはやされた。しかしジャナター党は右派コミュナル政党から社会党を含む寄合所帯で,選挙後の内政においてもガンディー政権のマイナスを埋めることはできなかった。そして主導権争いの結果分裂し,80年1月施行の第7回総選挙で再びガンディー会議派が勝利した。84年凶弾に倒れたガンディー首相のあとをついだ長男のラジブ・ガンディーが率いた国民会議派は89年の下院総選挙で野党共闘に惨敗し,政権を引き渡した。
→インド[国]
執筆者:内藤 雅雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
「インド国民会議派」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…1912年ウルドゥー語週刊誌《ヒラールal‐Hilāl(新月)》を発刊,その政治的・宗教的急進性によってムスリム青年層を引きつけた。ヒラーファト運動で理論家として主導的役割を果たした後,20年以降ガンディー指導下の国民会議派の活動に参加し,23年(臨時大会)と40年に会議派大会議長を務めた。第2次世界大戦後の対英政治交渉では,会議派内の代表的ムスリム指導者として活躍したが,ネルーら会議派の他の指導者との間に対立もあった。…
…そのおもな流れが二つある。 ひとつは国民会議派と左翼諸党派との対立の激化である。国民会議派は古くからの民族主義政党で,おもにヒンドゥー教徒を代表していたが,1930年代半ばの国民会議派社会党の結成やインド共産党の台頭によって国民会議派に対する左からの圧力が強まり,民族運動内部の主導権争いが激化していた。…
…この過程を通じて,議会選挙の有権者の範囲は拡大されたが,ムスリムに独自の議席を設け,宗教徒間の対立を醸成した。一方インド人の独立運動は国民会議派が主導して進められ,ガンディーの説くサティヤーグラハという非暴力抵抗が運動の精神となったが,20年代以後には社会主義が叫ばれ,また農民運動と労働運動が独立運動の要素となった。 第2次世界大戦後,イギリス側は行政・軍事の面でインドを統治する実力を失い,高等文官を供給することができず,あらゆる官職のインド人化が急速に進んだが,パキスタンの分離を叫ぶムスリム連盟はムスリムを代表する政党と見なされ,国民会議派と激しく対立したため,インド独立は遅れた。…
…この間,収税・農務長官などのインド政庁の要職を歴任するが,植民地行政をめぐりしばしば本国政府の意向と対立した。また婦人の教育問題など社会改革の分野でも幅広い活躍をしたが,政治権力を奪われているかぎり社会改革は徒労という考えから,インド国民会議派の創設と発展に尽力した。【四宮 宏貴】。…
※「国民会議派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新