デジタル大辞泉
「燕」の意味・読み・例文・類語
つばめ【TSUBAME】[Tokyo-tech Supercomputer and Ubiquitously Accessible Mass-storage Environment]
《Tokyo-tech Supercomputer and Ubiquitously Accessible Mass-storage Environment 》東京工業大学 に設置されたスーパーコンピューター 。平成18年(2006)に運用開始。ピーク性能は85テラフロップス (毎秒85兆回の浮動小数点演算 )。「みんなのスパコン 」をモットーに、学生をはじめ、学内外での幅広い利用が可能となっている。名称は、同大学の校章のツバメに由来する。 [補説]後継機として、平成22年(2010)にTSUBAME2.0、平成25年(2013)にTSUBAME2.5、続いてTSUBAME-KFC が稼働開始。
つばめ
《動詞「つばむ 」の連用形から。「燕」の字を当てることが多い》とりまとめること。特に金銭を合算すること。また、収支の帳尻を合わせること。 「毎月の胸算用せぬによって、―のあはぬ事ぞかし」〈浮・胸算用 ・一〉
つばめ【燕】[地名]
新潟県中部、新潟平野 にある市。銅器・洋食器の製造で知られる。平成18年(2006)3月、分水町・吉田町と合併。人口8.2万(2010)。
つばくら【× 燕】
「つばくらめ 」の略。《季 春》 「―や扇ならべし店の窓/杢太郎」
つばくろ【× 燕】
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つばめ【燕】
[ 1 ] 〘 名詞 〙 ① ツバメ科の鳥の総称。全世界に約八〇種が分布する。一般に上面が暗色、下面が白色で全長一〇~二三センチメートル。すべて空中を飛びながら昆虫をとって生活する。飛翔中翼は細長く先端がとがって見える。尾はそう長くないが、外側の尾羽が長く伸びている種がかなりあり、いわゆる燕尾(えんび) をなす。巣は樹洞や岩穴に作るもの、自分で崖に穴を掘るもの、泥で岩壁や建物に作るものがある。泥で作るものの中には単純な椀型のもの、球型のもの、徳利型のものがあり、おそらくこの順序で進化してきたと思われる。日本には自分で穴を掘るショウドウツバメ、椀型に作るツバメ、球型に作るイワツバメ、徳利型に作るコシアカツバメ、沖縄のリュウキュウツバメ の五種が繁殖する。また、アマツバメ科の鳥も同様な生活と飛翔型をしているために「つばめ」と呼ばれることがあるが、分類上は別のグループに属する。古来、秋のカリに対して春の代表的な渡り鳥として親しまれている。つばくらめ。つばくろめ。つはひらく。つはひらこ。つばくら。つばくろ。乙鳥(いっちょう) 。玄鳥。《 季語・春 》[初出の実例]「燕(つばめ) 来る時になりぬと雁がねは本郷(くに) 思(しの) ひつつ雲隠り鳴く」(出典:万葉集(8C後)一九・四一四四) ② ツバメ科の鳥。全長約一七センチメートル。尾羽は長く、燕尾形で二またに分かれる。体の上面は青く光る黒色で下面は白い。額から上胸にかけて黒色でふちどられた栗色の大きな斑紋(はんもん) がある。飛行が巧みで、飛びながら昆虫を捕食する。人家の軒などに土やわらくずで椀型の巣をつくり三~七個の卵を産む。日本には三月上旬から五月上旬にかけて全土に渡来し、秋に南方へ渡る。多くは同一の巣にもどってくる。③ 年上の女にかわいがられて情交を続ける若い男。[初出の実例]「ツバメを飼ふ為めに大車輪になって働いた」(出典:江戸から東京へ(1924)〈矢田挿雲〉一一) ④ ⇒つばめ (動詞「つばめる」の名詞形)[ 2 ] [ 一 ] 新潟県中央部の地名。越後平野 の中央部に発達。やすり・キセル・銅器などの伝統的産業を基礎に大正中期からスプーン・フォーク などの洋食器製造が始められ、全国生産の大部分を占める。弥彦線、上越新幹線(燕三条駅)が通じる。昭和二九年(一九五四 )市制。[ 二 ] ( つばめ ) 旧国鉄の特別急行列車の愛称名。昭和五年(一九三〇 )東海道本線 に登場。最後部につばめのテールマークを付けた展望車を連結した豪華列車で、東京・神戸間を当初九時間で結んだ。その後、東海道新幹線 の開業とともに山陽本線の特急列車の愛称となり、山陽新幹線 の開業で姿を消したが、JR九州で復活し、現在は九州新幹線で使われる。燕の語誌 ( 1 ) 「色葉字類抄 」にツハメ・ツハクロメの語形が見られる。ツバメ・ツバクラメ ・ツバクロメのメは、カモメ・スズメなど、鳥類に共通する接尾語か。( 2 ) 鎌倉・室町期になるとツバメが勢力を増し、「節用集」ではツバクラメを圧倒してくる。江戸期にはツバクラメは古語となり、ツバメ・ツバクラ・ツバクロが主流となる。
えん【燕】
[ 一 ] 中国、春秋戦国時代 の国。戦国七雄の一つ。周の武王が弟の召公奭(しょうこうせき) を薊(けい) に封じたのに始まり、河北省北部から東北地方南部一帯の中国北辺を領し約八〇〇年続いた。紀元前四世紀末に即位した昭王のとき、賢者、名将を登用して繁栄したが、紀元前二二二年秦に滅ぼされた。[ 二 ] 中国、五胡十六国時代の国。鮮卑の慕容部の建てた前燕(三三七‐三七〇 )、後燕(三八四‐四〇七 )、南燕(三九八‐四一〇 )と、漢人で後燕の将軍であった馮跋(ふうばつ) が建てた北燕(四〇九‐四三八 )の四か国がある。なお、慕容部の西燕(三八四‐三九四 )は十六国に数えない。
つばくら‐め【燕め】
〘 名詞 〙 =つばめ(燕) 《 季語・春 》[初出の実例]「讚吉の国の御城郡に獲たる所の、白(ツハクラメ) 、放ち養ふ」(出典:日本書紀(720)持統三年八月(北野本訓))
つばくろ【燕】
〘 名詞 〙 「つばくら(燕)」の変化した語。《 季語・春 》[初出の実例]「二月にはまた燕(ツバクロ) が、じんざひ木陰に巣をかけて、世の中よかれと三度さよづる」(出典:歌謡・踊唱歌(17C後)正月踊)
つばくら【燕】
〘 名詞 〙 =つばめ(燕) 《 季語・春 》 〔壒嚢鈔(1445‐46)〕
つはひらこ【燕】
〘 名詞 〙 鳥「つばめ(燕) 」の古名。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕
つばくろ‐め【燕め】
〘 名詞 〙 「つばくらめ(燕━)」の変化した語。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
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普及版 字通
「燕」の読み・字形・画数・意味
燕 人名用漢字 16画
[字音] エン[字訓] つばめ・たのしむ[説文解字] [字形] 象形 つばめの飛ぶ形。〔説文〕十一下 に「玄鳥なり」とあり、燕燕・ (いつ)ともいう。[訓義] 1. つばめ。 2. 宴・讌と通用し、たのしむ。 3. 古代の国の名。金文には ・ に作る。[古辞書の訓] 〔名義抄〕燕 ツバクラメ・ツツム 〔字鏡集〕燕 ツバクラメ・ツツム・ヤスシ・ハツ・クツ・フクム・ノム[声系] 〔説文〕に燕声として ・ など四字を収める。特に燕の声義を承けるとみられるものはない。[語系] 燕ian、乙( (いつ))eatは声近く通用する。また宴yanは同声、安an、 yanも声近く、通用することがある。[熟語] 燕安▶ ・燕衣▶ ・燕飲▶ ・燕燕▶ ・燕婉▶ ・燕歌▶ ・燕▶ ・燕窩▶ ・燕▶ ・燕間▶ ・燕頷▶ ・燕喜▶ ・燕几▶ ・燕休▶ ・燕居▶ ・燕▶ ・燕享▶ ・燕見▶ ・燕戸▶ ・燕弧▶ ・燕語▶ ・燕好▶ ・燕子▶ ・燕私▶ ・燕支▶ ・燕脂▶ ・燕室▶ ・燕昵▶ ・燕▶ ・燕爵▶ ・燕雀▶ ・燕出▶ ・燕処▶ ・燕食▶ ・燕石▶ ・燕説▶ ・燕▶ ・燕息▶ ・燕惰▶ ・燕泥▶ ・燕寧▶ ・燕▶ ・燕服▶ ・燕游▶ ・燕誉▶ ・燕侶▶ ・燕礫▶ ・燕和▶ [下接語] 飲燕・鶯燕・賀燕・海燕・帰燕・去燕・群燕・軽燕・社燕・春燕・寝燕・息燕・飛燕・風燕・遊燕・老燕
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燕[市] (つばめ)
目次 燕 分水 吉田 新潟県中部の市。2006年3月旧燕市と分水(ぶんすい)町,吉田(よしだ)町が合体して成立した。人口8万1876(2010)。
燕 燕市東部の旧市。1954年市制。人口4万3255(2005)。全国の9割以上に及ぶ金属洋食器の生産によって有名である。中心市街は信濃川の分流である中ノ口川沿岸に位置し,江戸時代に長岡船道の河岸場として発展した。江戸時代初期,農村の副業として和釘の製造が始まり,明治末期にはやすり,きせる,銅器を生産するようになった。この時期までに隣接する三条の金物業の影響を受けた。こうした伝統の技術を生かして1914年にフォークを試作したのが金属洋食器製造の始まりである。現在は,洋食器と厨房(ちゆうぼう)用器物を含む金属製品製造業が製造品出荷額1862億円(1995)のうち47%以上を占め,ほかにミシン部品,ゴルフクラブ,農業機械,銅器などを生産する。電解研磨 ,めっきなど関連・下請企業 を含む事業所数が多く,その大半は小工場や町家の土間などで作られる。製品の大部分は輸出されるが,近年伸び悩んでおり,そのため他の製造業も含む工業団地 が郊外に造成され,一般機械,電機などの企業が進出している。JR弥彦線が通じ,上越新幹線燕三条駅,北陸自動車道三条燕インターチェンジも設けられている。燕市産業史料館に洋食器産業関係の史料が収められている。 執筆者:磯部 利貞
分水 燕市南西部の旧町。旧西蒲原(にしかんばら)郡所属。人口1万5121(2005)。信濃川西岸にあり,町域の大部分は越後平野の沖積地からなる。大正末に完成した大河津(おおこうづ)分水(新信濃川 )の分岐点にあたり,町名もこれにちなむ。中心集落の地蔵堂は信濃川と西川の分岐点に位置し,近世に両川舟運の河岸町として発展した。大正初期に北越鉄道(現,JR信越本線),越後線が開通して舟運は衰えたが,現在も近郊の商業中心地となっている。1909年から23年にわたる分水工事により越後平野の中心穀倉地帯となったが,近年は工場の進出が相次ぎ,精密機械工業を中心に出荷額の伸びも著しい。伝統工芸の鎚起銀器,銅器も立地する。西部の国上(くがみ)山中腹にある国上(こくじよう)寺は越後有数の古刹で,参道脇の五合庵とふもとの乙子(おとご)神社は良寛の修行地として知られる。大河津分水の堤10kmには約6000本の桜が植えられ,毎年4月においらん道中が行われる。
吉田 燕市中北部の旧町。旧西蒲原(にしかんばら)郡所属。人口2万4893(2005)。信濃川分流の西川東岸の沖積低地 に位置し,中心の吉田は西川舟運の重要な河港で,米や越後木綿の集散地として栄えた。大正初期に国鉄(現JR)越後線,弥彦線が開通し,舟運は衰えたが,両線の分岐点として鉄道交通の中心となった。昭和30年代後半から積極的な工場誘致が進められ,また隣接する旧燕市の洋食器関連工場が過密化したこともあって工場進出がめざましく,工業出荷額の伸びは県下でも上位である。住宅地の造成も盛んで,人口も増加している。 執筆者:佐藤 裕治
燕 (えん) Yān
目次 燕の下都 中国古代,春秋戦国 の侯国。周武王の弟召公奭(しようこうせき)が薊(けい)(現,北京市)に封建された国といわれるが,実際に就国したのはその弟あるいは子と考えられる。近年北京西郊で西周初期の燕(匽と書く)関係の青銅器が多数発見されたが,その歴史はほとんど不明。戦国時代に強国の一つとして再登場し,中原文化を採用し,前284年には諸国とともに斉を攻め,一時斉の大半を手に入れたが,のち斉の反撃をこうむるとともに,趙の圧迫も受け,前226年秦に都の薊を奪われ,前222年に滅ぼされた。 →春秋戦国時代 執筆者:伊藤 道治
燕の下都 戦国時代,燕国の都城を下都といい,その遺構は河北省易県の県城南東2.5km,北易水と中易水に挟まれた地域で発見されている。下都の大きさは,東西約8km,南北約4kmで,中央を南北に走る城壁と運河によって東城と西城に分けられている。城内の遺構は主として東城内に分布し,東城内の戦国墓は,北西隅の虚糧塚区に13基,九女台区に10基の墳丘が残っている。調査の行われた九女台区の第16号墓は,高さ7.6m,南北38.5m,東西32mの墳丘を有し,墳丘下には南北に坑道のある長方形竪穴墓があった。墓室内の四方は焼土壁で,また墓室内には焼土が充満していた。副葬品は,青銅器を模倣した副葬陶器が主で,鼎,豆,壺,盤,匜(い),鑑,簋(き),盨(しゆ),盉(か),編鐘などがあり,玉製品,骨角器,鉄器なども認められた。武陽台村の西で発見された第44号墓は,版築面の間に掘られた長方形竪穴土壙で,22体の人骨と,多くの鉄製武器が出土した。鉄製武器には,矛,戟,剣,刀,匕首,鐏(そん),冑などがあり,戦国時代鉄器の研究資料として重要な役割を果たしている。このほか東城内からは,多数の建築址,運河,鉄器工房,鋳銭工房などの遺構,土器,青銅器,半瓦当,筒瓦,板瓦,陶井戸枠,水道管,塼(せん)などの遺物が発見されている。西城内にも若干の戦国墓が存在するが,遺構の発見は少ない。下都が燕の都城として栄えたのは前5世紀後半に入ってからのことで,前222年の燕の滅亡後,下都はその機能を失うが,城内からは漢代遺物も出土している。 執筆者:飯島 武次
燕 (えん) Yān
鮮卑族慕容部が中国内地に建てた諸王朝。五胡十六国 の一部をなす。慕容部は東北地方シラ・ムレン上流に起こり,西晋の滅亡を機に鮮卑系他部族や高句麗,扶余を制圧して遼東・遼西方面を支配した。4世紀半ば慕容儁 (ぼようしゆん)(319-360,在位348-360)は後趙の内乱に乗じて河北地方に進入,薊城(北京付近)を首都として燕帝国を建てた(前燕。352-370,のち鄴に遷都)。やがて一族に内訌が起こり,前秦の苻堅 に征服された。苻堅が淝水で東晋に敗れると,一族は国家再興を企て,西燕(384-394)と後燕(384-407)が興ったが,後燕は西燕を滅ぼし,河北,河南,山西,山東さらに遼東に及ぶ広大な帝国を建設した。しかし397年北魏が首都中山(河北省定県)に迫ると,国家は瓦解して南燕(河南,398-410)と北燕 (407-436)に分裂した。 執筆者:谷川 道雄
燕 (えん) Yān
中国,漢人馮跋(ふうばつ)の立てた王朝。北燕ともいい,五胡十六国 の一つ。後燕が北魏 に敗れて瓦解すると,その勢力の一部は遼西に逃れて竜城(遼寧省朝陽県)によった。漢人武将馮跋は407年,燕帝慕容熙を殺して高雲を立て,やがて409年みずから即位して天王を称し,契丹などの諸部族を支配した。馮跋のあとを襲った弟,馮文通のとき北魏に征服され,馮文通は高句麗に亡命したが殺された。馮氏は北族の風俗に染まっていたといわれ,北魏孝文帝時代に摂政として活躍した文明太后 は馮文通の孫に当たる。 執筆者:谷川 道雄
燕[温泉] (つばめ)
新潟県妙高市の旧妙高村にある温泉。関温泉の西部,妙高山山頂まで約6kmの標高1100m地点に湧き,1872年(明治5)に発見された。当初は夏場だけの湯治場であったが,スキー客が訪れるようになって発展した。含土類セッコウ泉,45℃。JR信越本線関山駅からバスが通じる。名物に笹餅とたけのこ料理がある。 執筆者:谷沢 明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」 改訂新版 世界大百科事典について 情報
燕(市) つばめ
新潟県中央、信濃川(しなのがわ)と中ノ口川(なかのくちがわ)分流点にある市。洋食器の町として知られる。1954年(昭和29)燕町と、小池、松長、小中川(こなかがわ)の3村が合併、市制施行。2006年(平成18)西蒲原郡分水町(ぶんすいまち)、吉田町(よしだまち)を合併。古くは、信濃川三角州の自然堤防上の渡し場として発生し、近世は中ノ口川通船の河岸場(かしば)町として栄えた。越後(えちご)の一宮(いちのみや)の弥彦(やひこ)参道の入口で、JR弥彦線、越後線が通じ、新潟交通の分岐点にもあたる交通上の要衝で、最近は上越新幹線の燕三条駅や、北陸自動車道の三条燕インターチェンジも設置され、目覚ましい発展を遂げている。
洋食器の町としての発展は、近世中期三条金物町の一環として、やすり、きせる、銅器などを特産とする町鍛冶(かじ)から始まり、第二次世界大戦後、金物業の不振から洋食器の試作に転換して、輸出洋食器生産の一大躍進をみ、全国輸出洋食器の85%(1996)を占める文字どおりの洋食器の町に発展した。その生産過程は、地金(じがね)づくりをする親工場から、研摩、めっきなどの下請工場 に渡って、ふたたび親工場に返し、仕上げをして輸出する模式的な分業零細企業で、その家内的町工場数は2173に及び県下一であった。最近、輸出洋食器の不振で、金属ハウスウェアを筆頭に、プラスチック製品、農機具、ゴルフクラブなどの多角的な軽金属工業 にかわり、工業団地が造成されている。手作りでしかできない鎚起銅器(ついきどうき)の技術は県の無形文化財 に指定されている。面積110.94方キロメートル(境界一部未定)、人口7万7201(2020)。
[山崎久雄]
燕(春秋戦国時代) えん
中国、春秋戦国時代の国名。周の武王の弟召公奭(しょうこうせき)が薊(けい)(現北京(ペキン)市内)に封ぜられたのに始まるといわれる。西周、春秋時代の燕に関しては諸書に記録がみられないが、これは異民族の山戎(さんじゅう)によって中原(ちゅうげん)地域との連絡が断たれたためと考えられている。戦国時代に入っても初期は斉(せい)や趙(ちょう)に圧迫されていたが、紀元前4世紀末、昭王(在位前312~前279)が即位すると楽毅(がくき)らの賢人名将を招き、前284年には楽毅の率いる軍が斉軍を破り、斉の都の臨淄(りんし)をはじめ、斉の都市の大部分を占領した。また、しばしば攻撃を受けた異民族の東胡(とうこ)も撃ち、造陽(ぞうよう)(河北省懐来(かいらい )県)より襄平(じょうへい)(遼陽(りょうよう)市付近)まで長城を築き、現在の遼寧(りょうねい)、河北両省と朝鮮北部を領有した。しかし、昭王の死後は、楽毅が退けられたため、斉の地から軍が撤退する結果となり、前3世紀なかば以降は秦(しん)の圧迫を受けることになった。太子の丹は刺客荊軻(けいか)を秦に送って秦王政(後の始皇帝)の暗殺を謀ったが失敗し、かえって前222年秦に滅ぼされた。
[太田幸男]
燕(五胡十六国時代) えん
中国、五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代の王朝名。鮮卑族慕容(ぼよう)部が建てた前燕、後燕、西燕、南燕と、漢人馮(ふう)氏が建てた北燕の5王朝の総称。このうち前燕(337~370)は遼寧(りょうねい)地方から興って、一時華北を前秦(ぜんしん)と二分する勢いをみせた。
[關尾史郎]
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燕【えん】
(1)中国,周 代の侯国。前11世紀武王のとき,召公【せき】(周の重臣)がいまの河北の地に封ぜられ,薊(けい)(現,北京)に都した。しだいに北東へ発展し,戦国時代には七雄の一つとなる。前222年,秦 に滅ぼされた。→春秋戦国時代 (2)中国で4―5世紀,五胡十六国 のうち鮮卑 の慕容(ぼよう)氏が建てた国。前燕(352年―370年),後燕(384年―407年),西燕(384年―394年),南燕(398年―410年)の4国があった。(3)中国,五胡十六国の一つ。407年―436年。北燕と呼ばれ,後燕を奪って建国した。 →関連項目安岳3号墳 |燕下都遺跡 |楽毅 |興隆遺跡 |戦国の七雄 |武王
燕[市]【つばめ】
新潟県中部,越後平野 南部の市。南端で信濃川 と新信濃川が分流する。1954年市制。市域南端から東隣の三条市にかけて,上越新幹線燕三条駅,北陸自動車道三条燕インターチェンジがあり,弥彦線と越後線が交差するなど交通の結節点をなす。弥彦線が通じる中心市街は古く信濃川の河港で,近世中期,隣接の金物町三条の影響でやすり,きせる,銅器を産した。第1次大戦後洋食器製造に転換して全国最大の産地に発展した。近年輸出の伸び悩みなどから他の製造業も含めて郊外に工業団地が造成された。洋食器,台所用品,ゴルフクラブなどの金属製品および関連の鉄鋼,一般機械が主要産業となっており,輸出洋食器の生産額は現在も全国の9割以上を占める。2006年3月西蒲原郡分水 町,吉田 町を編入し,市役所を旧吉田町役場とした。110.96km2 。8万1876人(2010)。 →関連項目産業集積
燕[温泉]【つばめ】
新潟県中頸城(なかくびき)郡妙高村(現・妙高市)にある温泉。含土類石膏泉。45℃。弘法大師発見48湯の一つで,上杉謙信 も入湯したという。妙高山東麓の標高約1000mの地で,妙高戸隠連山国立公園 に属し,避暑とスキーの適地。えちごトキめき鉄道関山駅からバス。
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燕(えん) Yan
①〔戦国〕?~前222 戦国の七雄 の一つ。河北省北部を領有。薊(けい)(北京北西)に都した周初以来の封建諸侯国といわれる。前323年以来王を称す。中原 の人士を受容して国力を増し,前284年斉 に大勝し,北は東胡(とうこ) を撃退して上谷(じょうこく)(河北懐来県)-襄平(じょうへい)(遼陽付近)間に長城を築き,遼東を開拓し,中国勢力の東北移植の基礎を置いた。その後,秦 の圧迫を受けて滅んだ。
②〔五胡十六国〕五胡十六国 の王朝で,前燕(ぜんえん),後燕(こうえん),南燕(なんえん),北燕(ほくえん)などがある。(1)前燕(337~370)鮮卑(せんぴ) の慕容廆(ぼようかい)が強大となり,子の皝(こう)が竜城(熱河(ねっか))に都して建国し,のち鄴(ぎょう)(河北)に遷都したが前秦 に滅ぼされた。(2)後燕(398~407)淝水(ひすい)の戦い で前秦が敗れると,慕容垂(ぼようすい)が後燕を復興し,中山(河北)に都したが,のち北魏 に中山を奪われ,竜城に逃れた。(3)北燕(409~438)漢人将軍馮跋(ふうばつ)が後燕を滅ぼして建国したが,弟の馮弘(ふうこう)は北魏の圧迫を受け,高句麗 に逃れて殺された。(4)南燕(398~410)北魏が中山を奪ったとき,慕容徳は広固(山東)に都して建国したが,のち東晋 の劉裕(りゅうゆう) に滅ぼされた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」 山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
燕 えん Yan; Yen
中国,周代の諸侯国の一つ,また戦国の七雄 の一つ。周 の武王の弟の一族と伝えられる召公せき (しょうこうせき) が薊 (けい。北京) に封じられたのに始るといわれるが,前6世紀後半までは不明な点が多い。戦国時代初期に文侯が合従策 (→合従連衡 ) を立てた蘇秦 (そしん) を用いたというが疑わしく,易王 10 (前 323) 年,七雄中最も遅く王号を称した。易王を継いだ燕王噌 (かい) が政治を怠り斉に大敗したが,次の昭王が郭隗 (かくかい ) の進言で人材を天下に求めたので楽毅 (がくき) が仕え,諸侯の連合軍を率いて斉を破った。のち秦 と友好関係を結んだ時期が多かったが,勢力は弱く,戦国時代末,太子丹の依頼で秦の始皇帝 を暗殺しようとした荊軻 (けいか) が失敗し,王喜 33 (前 222) 年秦に滅ぼされた。中国北部に位置していたため北方民族の侵入を受けやすく,その防止のため長城を築く一方,彼らと貿易を行なって巨利を得た。下都 (河北省易県) 遺跡からの出土品は当時の手工業の発展を示すものが多い。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
燕 えん
①周代の諸侯国,戦国の七雄の1つ ②五胡十六国時代の国名 現在の河北省の北東部から東北地方南部の地を領有。都は薊 (けい) (現在の北京)。始祖は周の武王の弟召公奭 (しようこうせき) 。初め山東から移ったが勢力が弱く,前323年に王と称して七雄となる。長城構築・朝鮮進出などもあったが,国力がしだいに衰え,秦王政を壮士荊軻 (けいか) に討たせる太子丹の策も成功せず,前222年秦に滅ぼされた。朝鮮南部や日本で発見される明刀銭 (めいとうせん) は燕の貨幣である。 鮮卑 (せんぴ) 慕容氏のたてた前燕(337〜370)・後燕(384〜409)・南燕(398〜410),漢人馮跋 (ふうばつ) の北燕(409〜436)がある。
出典 旺文社世界史事典 三訂版 旺文社世界史事典 三訂版について 情報
燕 (ツバメ)
学名:Hirundo rustica 動物。ツバメ科の渡り鳥
出典 日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」 動植物名よみかた辞典 普及版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の 燕の言及
【春秋戦国時代】より
…前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。[歴史] 《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,魯(山東省曲阜),斉(山東省臨淄(りんし)),曹(山東省定陶),衛(河南省淇県,のち滑県),鄭(河南省新鄭),宋(河南省商丘),陳(河南省淮陽(わいよう)),蔡(河南省上蔡,のち新蔡,さらに安徽省鳳台),晋(山西省曲沃),秦(陝西省鳳翔,のち咸陽),楚(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),燕(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には周王室があった。…
【明刀銭】より
…中国古代の刀形貨幣(刀貨)の一種で,戦国時代の燕国で通用した銅貨。春秋時代に山東半島を支配した斉国で刀子(とうす)の形を青銅で鋳造した刀銭がおこり,北京を中心とする燕国に伝わったものとされている。…
【洋食器】より
…地域的にみると新潟県が,食卓用ナイフ,フォーク,スプーンについては出荷額の約85%,その他の洋食器でも同じく出荷額の約70%を占めている。これは[燕(つばめ)市]に大正時代から金属洋食器の一大産地が形成されてきたからである。その点で金属洋食器製造業は典型的な[地場産業]であるといえる。…
【妙高温泉郷】より
…新潟県南西部,妙高山(2446m)東麓の妙高高原に開けた温泉郷。標高の高い順に,約1100mの[燕(つばめ)温泉](含土類セッコウ泉,45℃),約900mの[関温泉](含鉄食塩泉,46℃),700~800mの[赤倉温泉](重炭酸土類泉,60℃),[池ノ平温泉](単純泉,60℃),500~600mの妙高温泉,新赤倉温泉(いずれも赤倉温泉からの引湯)と並ぶ六つの温泉からなる。享保年間(1716‐36)開湯の関温泉が最も古く,大正末期開湯の池ノ平温泉,新赤倉温泉が最も新しい。…
※「燕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」