日本歴史地名大系 「兼久村」の解説 兼久村かねひさむら 鳥取県:米子市兼久村[現在地名]米子市兼久実久(さねひさ)村の北東、法勝寺(ほつしようじ)川東岸にある。当村南方で同川に小松谷(こまつだに)川が合流、日野川に入る。集落はかつて川の西岸平地部にあったが、中世以後の河床上昇による洪水氾濫被害のため、寛永年間(一六二四―四四)東岸丘陵部に移住したという。旧集落の辺りには小字一(いち)ノ坪(つぼ)・二ノ坪・三ノ坪などがあり、条里施行地域と考えられる。天正一五、六年(一五八七、八八)頃の吉川広家領地付立(吉川家文書)に「兼久」とみえ、三五貫が吉川氏領。「陰徳太平記」には天文二〇年(一五五一)七月備後志川滝山(しがわたきやま)城(現広島県福山市)攻めの際小早川勢として兼久又六を、天正元年小早川隆景の命で上京した家臣として包久景喜を記し、当地名を名乗る武士とも推定される(伯耆志)。 兼久村かねくむら 鹿児島県:大島郡天城町兼久村[現在地名]天城町兼久阿布木名(あぶきな)村の南に位置し、西部は海に臨む。東に美名田(みなだ)山があり、その麓に美名田(皆田)の集落がある。ほかに地内に阿年塔(あねんとう)・堀切(ふりきり)などの地名があり、集落の東の小高い森に牛神を祀っている。北東に山寺があり、グスク跡のほか、アマングスクや信仰の森ニョウガンなどがある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by