兼久(読み)かねくあつかい

日本歴史地名大系 「兼久」の解説

兼久
かねくあつかい

近世、西目にしめ間切の南部に置かれた行政区分。所属した村は九ヵ村で、現在の天城町南部を占める。寛政一〇年(一七九八)兼久与人の福祐が上国しており、文政六年(一八二三)上国した与人道統は諸役向に黒砂糖焼酎・塩豚・芭蕉布などを献上している。天保九年(一八三八)の兼久の人数二千三一二。同一二年砂糖の大坂表での値下がりに伴い、黍見廻重役を増員しており、阿布木名あぶきな村・兼久村瀬滝しだき村・当部とうべ村の各一人となっている。

兼久
かねく

[現在地名]嘉手納町兼久

野国のぐに地区北西の海岸砂丘地に位置し、南を野国ぬぐん川が流れ、西は東シナ海に面する。もと野国ぬぐん村北西に形成された屋取集落で、カニクとよばれる。一九世紀前後に久米村系の古謝家・亀島家の先祖が寄留したと伝える(嘉手納町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報