内砂丘(読み)うちなださきゆう

日本歴史地名大系 「内砂丘」の解説

砂丘
うちなださきゆう

金沢市粟崎あわがさき町の大野おおの川河口から高松たかまつ二ッ屋ふたつや大海おおみ川河口の間の海岸砂丘。距離約二〇キロ、幅約一―二キロ、砂丘頂部の最高は内灘町むろ付近で六一・三メートルに及ぶ国内でも屈指の砂丘。内日角うちひすみを境に生成を異にしており、南部地区は旧・新の二つの砂丘が重なった累重砂丘、北部地区は三列の横列砂丘。北部地区を河北台かほくだい砂丘・河北砂丘・高松砂丘とよぶこともある。南部地区の古砂丘は縄文時代前・中期に形成され、北部地区の内列砂丘と中列砂丘に相当し、南部の新砂丘は弥生時代末期から古墳時代初期に形成され、北部の外列砂丘に相当する。南部の古砂丘と新砂丘の間に黒色の腐植土質砂層・泥炭層が挟まれており、それが堆積された時期は砂丘が固定していたと考えられ、縄文時代中期―古墳時代初期の考古遺物が出土する(「内灘町史」など)

砂丘における人々の生活の課題はいかにして飛砂を防ぐかにあったが、ときには飛砂の被害によって集落の移転に追込まれた村もあった。高松村(現高松町)では近世初期までに三度移転したとする伝承があり(高松町史)、正徳四年(一七一四)には本根布もとねぶ村、寛政五年(一七九三)には大根布おおねぶ村が飛砂の被害から移転を願出ている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報