内藤政挙(読み)ナイトウ マサタカ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「内藤政挙」の解説

内藤 政挙
ナイトウ マサタカ


肩書
延岡藩知事

旧名・旧姓
旧姓=太田

別名
幼名=亀次郎

生年月日
嘉永3年5月10日(1850年)

出生地
江戸

出身地
日向国延岡(宮崎県延岡市)

経歴
万延元年内藤政義養子となり、文久2年延岡藩主となる。明治2年延岡藩知事に就任するが、4年廃藩により免ぜられた。漢籍を学び、同年横浜高等学校で英語を修め、ついで慶応義塾に入るが、眼を患って中退した。22年帰郷し、育英事業に専念、延岡高女、延岡女子職業学校、日平尋常高小、見立尋常高小の経営にあたった。また藩時代からの日平銅山を発展させ、大正初年見立に錫鉱を開発、延岡付近に電気を供給し、造林は杉、檜、楠など総数145万本にものぼった。

没年月日
昭和2年5月23日

家族
父=太田 資始(掛川藩主) 養父=内藤 正義(延岡藩主)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「内藤政挙」の解説

内藤 政挙
ナイトウ マサタカ

江戸時代末期・明治期の育英事業家,子爵 延岡藩主。



生年
嘉永3年5月10日(1850年)

没年
昭和2(1927)年5月23日

出生地
江戸

出身地
日向国延岡(宮崎県延岡市)

旧姓(旧名)
太田

別名
幼名=亀次郎

経歴
万延元年内藤政義の養子となり、文久2年延岡藩主となる。明治2年延岡藩知事に就任するが、4年廃藩により免ぜられた。漢籍を学び、同年横浜高等学校で英語を修め、ついで慶応義塾に入るが、眼を患って中退した。22年帰郷し、育英事業に専念、延岡高女、延岡女子職業学校、日平尋常高小、見立尋常高小の経営にあたった。また藩時代からの日平銅山を発展させ、大正初年見立に錫鉱を開発、延岡付近に電気を供給し、造林は杉、檜、楠など総数145万本にものぼった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「内藤政挙」の解説

内藤政挙 ないとう-まさたか

1852-1927 幕末-大正時代大名,教育事業家。
嘉永(かえい)5年5月10日生まれ。遠江(とおとうみ)(静岡県)掛川藩主太田資始(すけもと)の3男。内藤政義の養子となり,文久2年日向(ひゅうが)(宮崎県)延岡(のべおか)藩主内藤家8代。維新後,慶応義塾でまなび,女児教舎(のちの延岡高女)を経営,小学校なども創立した。明治17年子爵。昭和2年5月23日死去。76歳。通称は亀次郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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