日本歴史地名大系 「出京町懸」の解説
出京町懸
できようまちがかり
京町から北に続く豊前街道筋の細長い町人町で、一町で一懸をなす。京町との境の出京町口は京町を経由して城内へ入る要害で、細川忠利によって東西に空堀が掘られていた。出京町構口には有明灯の辻番所が置かれ(制度考)、出京町内田屋脇は押口(須戸口)となっていた(「惣月行事記録抜書」熊本大学蔵)。「藤公遺業記」に「凡植木町より熊本出町口まで往還を堀旅人常に御府中の形容を不見為の御備と云伝ふ」とあり、往還は深い凹道になっていたといわれる。町成立の正確な時期は不明だが、宝暦一〇年(一七六〇)までの町の範囲は、現在の出町三番と四番の間までほどで、文政七年(一八二四)から嘉永四年(一八五一)になると、現池田一丁目一五と三〇番地の間までがさらに街道沿いに北に延びる。一般に出京町とよばれるほかに、宝暦頃の肥後国中寺社御家人名附や市井雑式草書坤(永青文庫蔵)では出京町上町・同中町・同下町の三丁に分れ、また文化一一年(一八一四)の諸御郡村附帳では、上ノ丁・下ノ丁・新出京町となっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報