きょう‐まちキャウ‥【京町】
- 江戸の、元吉原および新吉原にあった町名。京都出身の揚屋が多いため呼ばれた。
- [初出の実例]「京町の猫かよひけり揚屋丁〈其角〉」(出典:俳諧・五元集(1747)拾遺)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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京町
きようまち
[現在地名]小倉北区京町一―四丁目・魚町一丁目・米町二丁目
東曲輪の北部に位置し、南は米町と接し、北は船頭町・舟町。細川忠興の小倉城築城に伴い成立した町で、碁盤状に区切られた東曲輪を東西に貫通、東は掘割の砂津川から西は紫川に達する。常盤橋より門司口門を経て門司口橋を渡る門司往還が通り、九州諸藩の参勤交代路として両側に大きな町家が軒を並べる。町北側の富田屋はその祖とされる富田重信が天正年間(一五七三―九二)小倉で商人になり、城下建設に伴い京町二丁目に屋敷地を割かれたという。小倉町人仲間の頭役の立場にあり、大坂屋とともに糸割符商人に指定された。細川氏の町普請で地割などを勤めたのが新屋石井氏(大内氏に仕えていたという)で、当町四丁目に宅地を与えられた。のち井上と改め、播磨屋・網干屋を号した。
京町
きようまち
[現在地名]中津市中津 京町
中津城大手門の東、すぐ前を京町八百屋の辻といい、近くに町会所があった。これより南へ約三〇〇メートルの商店街。上勢溜付近の職人町は明治六年(一八七三)京町に合併された(中津歴史)。享保三年(一七一八)殿町の大火で、上ノ丁片側八軒・一一竈を類焼したが、翌年の調査では軒数八七・竈数一〇四とある。宝暦一三年(一七六三)の舟町の大火で町会所と五竈が類焼した。安永六年(一七七七)は空家一一、文化二年(一八〇五)には軒数九六・竈数八〇、空家一八、町会所二、稽古屋一となっており、空家が目立って多くなっている(惣町大帳)。当町成立時の様子について「中津歴史」は「此城文禄年中マテハ大家三郷トテ三村ニ分チ三屋敷ナリ、故ニ孝隆中津ニ入リシ時、先今ノ京町中の辻ニ当ル伊予屋弥右衛門ト云町人ノ宅ヲ本陣トシテ此城ヲ修造セリ」と述べている。
京町
きようまち
[現在地名]福井市順化二丁目・中央三丁目・照手一丁目
九十九橋北詰から北に延びる町。北に続く呉服町通とともに北陸街道沿いの町で、城下最大の繁華街。絹布など京都からの小間物を扱った町か。慶長年間北庄四ツ割図に町名がみえ、家数三八。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳は「往還京町 九拾三間、大橋ヨリ京町外レ迄内拾弐間ハ橋台御門制札場所、但道幅五間」と記す。
京町
きようまち
[現在地名]中区丸の内三丁目
両替町の東、諸町の西に位置し、七間町筋と伊勢町筋との間の二丁をさす。七間町筋の西へ一、二軒も支配した(町名起因並町家由緒)。慶長年中(一五九六―一六一五)清須の京町を移して、旧号を用いた(蓬左遷府記稿)。清須の本町近傍に京町の字名が残っている。町名は清須へ京より商人が多数来住し、呉服物・細物・太物類の商売を始めたことに基づく(金鱗九十九之塵)。氏神は那古野神社。井戸水は良好、土は小石の混じる赤土(市譜)。
京町
きようまち
[現在地名]高知市はりまや町一丁目・帯屋町一丁目
下町のほぼ中央にある縦堀の北側、西部にある両側町。西は郭中境の外堀、東は種崎町。江戸時代中期の「高知風土記」によると東西六三間、南北二九間で家数二六。
この地はもと城畑とよび、戦国時代は国沢将監の居城北側の野原であった。山内氏による城下町設営の時、京都の呉服商筒井宗泉が移住してつくった町といわれ、京都の猿楽役者も来住した。
京町
きようまち
[現在地名]桑名市京町
職人町の南にあり、東海道筋の東西に長さ一〇八間の町屋敷地。西端に京町御門があり、その南側には見付番所、北側には郷方役所(郷方代官の役所)がある。江戸時代以前は三崎の一つである加良州崎の松原で、片側町であったといわれる。町の北側に毘沙門堂があり、慶長の町割の時に朝明郡田口村(現三重郡菰野町)の福王山(五九八メートル)に移されたが、のち再び当町に戻った。
京町
きようまち
[現在地名]武生市本町・神明町
北陸街道沿いの町で、北は本町、南は柳町に続く。寛永二年(一六二五)の浅井永記録は当町を「新町五十四軒」と記し(南条郡誌)、正徳六年(一七一六)閏二月五日京町と改称された(「南条郡誌」所引京町水帳)。安永三年(一七七四)の前田家文書では八八軒(武生市史)、嘉永四年(一八五一)の記録には「本家五十五軒、地借十四軒、但町代庄屋引る、門前二十七軒」とある(南条郡誌)。正徳元年の府中惣絵図では道幅八間で府中町最大。竜門寺前から古城町へ通じる所は小路が交錯して卍状になっており、「まんじの辻」とよばれる。
京町
きようまち
[現在地名]津山市京町
出雲往来に沿う両側町で、東は伏見町、西は堺町、南は河原町・小性町、北は城の堀。町の中央部から北へ城の堀に架かる京橋を渡り、城の表門である京橋門に至る。この道筋が大手口で、京橋門は京町前門・京町大手門・京橋口門とも称された。町の成立は慶長年中(一五九六―一六一五)で(津山誌)、正保城絵図に町屋がみえる。万治町絵図では西京町と東京町とに分れていたが、「武家聞伝記」明暦二年(一六五六)条に京町がみえ、「津山誌」は寛文年間(一六六一―七三)に京町と総称したとする。
京町
きようまち
[現在地名]唐津市京町
内町の東南地を東西に延びる町筋で、唐津城築城時の町割でできた。
天保(一八三〇―四四)の頃、唐津藩の大坂御蔵元であった大根屋、長崎屋の出張所があった。天明元年(一七八一)太宰府天満宮に赤銅の鳥居を寄進した日野屋常安九右衛門が町内地所の大半を占めていた。九右衛門は呼子(現東松浦郡呼子町)の中尾甚六と並んで捕鯨で産をなし、文化九年(一八一二)八月、伊能忠敬は測量日記に「右ニ用達町人家号日野屋常安九右衛門と云ふ大家あり」と記している。幕末の商家では、大町年寄の糸屋草場家・平田屋草場家・平野屋薬屋舟越家・於釜屋岩下家などがあった。
札の辻橋付近は藩の御用地で、札の辻惣門とよばれる門構があり、枡形になっていて、町奉行所もここに置かれた。
京町
きようまち
[現在地名]加賀市大聖寺京町
本町の北にある町人町で、藩邸前の「御馬出」から東に延びる通りに面した両側町。本町とともに大聖寺町の中心をなし、町役は本役を負担した(寛永年間「大聖寺町家図」伊東家蔵)。天明六年(一七八六)の大聖寺絵図によると西は八間道、東は寺町筋に及び、中央やや東寄りで本町と福田町を結ぶ南北方向の道が交差、その南西角に町年寄吉田屋があり、吉崎屋・平井屋・味噌屋など有力商人が軒を並べた。南側西端に寛文七年(一六六七)二代藩主利明が設置した時鐘堂があり、それに隣接して寛政七年(一七九五)町会所が建てられた。
京町
きようまち
[現在地名]亀岡市京町
古世横町と西の矢田町までの東西の町並。町名は、町並作りに際し、昨日までは在家、今日からは町分ということで、今日町といわれ、それがいつの頃からか京の字を使うようになったという。また一説には方角が京街道筋にあたるので京町という(町巨細帳「桑下漫録」所引)と伝える。
町並の長さは一四六間、戸数は矢田町と合わせて五七(桑下漫録)。地内は古世村分内であるが、築城に際し中矢田村民を移り住ませた。
町の中ほどに天満宮(現天満神社)がある。同社の縁起によれば、菅原道真の左遷の時、家臣の春彦が道真の像を刻み末代の形見に残そうと日夜苦労していた。
京町
きようまち
[現在地名]大分市中央町一―二丁目
府内城西側の中堀に沿って南北に延びる町。南は東上市町と中上市町で、両町の境をなす通りが当町の中央を通る。東側の町並は北の革屋町と続く。慶長府内絵図に町名がみえ、東頬三二間・西頬三一間、東西の入一五間。町郷中酒造米高寄帳(府内藩記録)によれば酒造業者が二軒あり、酒造米高は延宝七年(一六七九)一〇石と二〇石、元禄一〇年(一六九七)五斗と不造、正徳五年(一七一五)二斗六升と六石六斗余。
京町
きようまち
[現在地名]小松市京町
小松町の中央九竜橋際より北に通じる南北通りで、東は中町、西は小馬出町。長さ二町一〇間三尺・幅三間三尺、北端で東に折れた通りを横京町(京町横)と称し、一町ほどで南は細工町、北は松任町に続く(皇国地誌)。小松城大手に続く主要道路沿いの町のため早くから発達して家並もそろっていた。
京町
きようまち
[現在地名]小樽市松ヶ枝一丁目
明治三三年(一九〇〇)に小樽区大字入船町の一部が割かれて京町が成立。柳町の西にある。明治二九年住ノ江町の遊廓が入船町の奥天狗山麓に移転することが決定、同三三年当町など五大字が新設された(小樽市史)。
京町
きようまち
[現在地名]福知山市字京
城郭の北、大手門のある京町堀に沿う東西の片側町で、城下一五町の第一にあげられる。城下町建設当初からの町で有馬豊氏時代(慶長―元和)の福智山城之絵図にその名がみえる。
町の東端、由良川堤防を越える所に京街道の南の出入口である京口門があり、番所があった。西は鍛冶町南詰までである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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京町[温泉] (きょうまち)
宮崎県南西部,えびの市にある温泉。1914年にボーリングによって深さ約130mの所から40℃の温泉が湧出し,付近の吉松温泉(鹿児島県。泉質は単純泉,泉温30~70℃)とともに発展した。泉源は28に及ぶが,華やかな温泉街ではなく,田園的な温泉である。泉質は単純泉で,泉温45~68℃。近くに霧島屋久国立公園,矢岳高原県立自然公園がある。
執筆者:下村 数馬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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