日本歴史地名大系 「出水筋」の解説 出水筋いずみすじ 鹿児島県:総論出水筋近世薩摩国を縦断する主要街道で、九州街道・肥後街道・西目(にしめ)筋・小倉(こくら)筋などともよばれた。肥後国側からは薩摩街道と称される。経路は現国道三号と近い。鹿児島藩島津氏の参勤交代道として利用されたほか、公用書状送達を行う七筋の一。「列朝制度」によれば、鹿児島城下から出水肥後境まで道程二五、六里。当街道の起源は律令期の大宰府と薩摩国府(現川内市)を結ぶ西海道西路にさかのぼる。ただし薩摩国府が所在した地と鹿児島の間は中世以降に幹線道になったと考えられる。出水筋が通過した外城は伊集院(いじゆういん)郷・市来(いちき)郷・串木野郷、隈之城(くまのじよう)郷・水引(みずひき)郷・高城(たき)郷(現川内市)、阿久根郷・野田(のだ)郷・高尾野(たかおの)郷・出水郷であった。〔経路〕鹿児島城下下(しも)町札辻(ふだのつじ)を起点に御舂屋(おつきや)・西田(にしだ)橋を経て水上(みつかん)坂を登り、横井野(よこいの)町(以上現鹿児島市)で本格的な旅路についた。江戸時代は水上坂もしくは横井野町で別れの盃を交わすのがしきたりであった。約四里半で永平(えいへい)橋を渡り、伊集院郷の野町に入る。永平橋は嘉永四年(一八五一)に石橋に架替えられ、西郷隆盛が工事監督として参加したという。今は道路筋に石橋架橋記念碑が残る。伊集院郷の野町では伊作(いざく)郷(現吹上町)に至る往還(吉利―伊作)、谷山(たにやま)郷(現鹿児島市)に至る往還(春山―五ヶ別府―谷山)、蒲生(かもう)郷に至る往還(郡山―蒲生)などが分岐した。同地から苗代川(なえしろがわ)村(現東市来町)に至るが、鹿児島藩主や他国からの旅人が立寄ることが多かった。天明二年(一七八二)に橘南谿(西遊記)、翌三年に古河古松軒(西遊雑記)、寛政四年(一七九二)に高山彦九郎(筑紫日記)、文化七年(一八一〇)に伊能忠敬(伊能忠敬測量日記)、天保二年(一八三一)に高木善助らが立寄ったことが知られる(薩陽往返記事)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by