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西郷隆盛 さいごうたかもり

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

西郷隆盛
さいごうたかもり

[生]文政10(1827).12.7. 鹿児島
[没]1877.9.24. 鹿児島
幕末,明治維新の元勲,政治家で軍人。通称吉之助。南洲と号した。薩摩藩下級士族の出身。藩主島津斉彬 (なりあきら) の知遇を受け藩政に参画。島津久光公武合体論に抗して尊王攘夷運動に奔走。慶応3 (1867) 年 12月9日の王政復古に重要な役割を演じ,新政府参与,戊辰戦争では大総督参謀となった。明治4 (71) 年,参議筆頭となり,廃藩置県に尽力したが,征韓論を唱えて政府にいれられず辞職。帰郷して私学校を経営し,士族授産に尽力した。しかし中央政府との疎隔がはなはだしくなり,部下に擁立されて 1877年,西南戦争を起し,ついに敗れて城山で戦死した。死後,陸軍大将の位階などが復元された。

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デジタル大辞泉の解説

さいごう‐たかもり〔サイガウ‐〕【西郷隆盛】

[1828~1877]政治家。薩摩(さつま)の人。通称、吉之助。号、南洲。討幕の指導者として薩長同盟戊辰戦争を遂行し、維新の三傑の一人と称された。新政府の参議・陸軍大将となったが、明治6年(1873)征韓論に関する政変下野、帰郷。明治10年(1877)西南戦争に敗れ、城山で自殺。
海音寺潮五郎によるの史伝。昭和36年(1961)から昭和38年(1963)にかけて朝日新聞に連載されたものが初出。16年もの間書き続けられた大作だが、著者の死により未完に終わる。単行本は全9巻で、昭和51年(1976)から昭和54年(1979)にかけて刊行。
林房雄によるの長編の評伝小説。昭和14年(1939)に執筆開始。昭和45年(1970)完結。全22巻。

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百科事典マイペディアの解説

西郷隆盛【さいごうたかもり】

明治維新の指導者。薩摩鹿児島藩の下級士族の出身。通称を吉兵衛,吉之助,号は南洲。藩主島津斉彬(なりあきら)に取り立てられ江戸詰となり,将軍継嗣問題一橋慶喜擁立運動に東奔西走するが,井伊直弼大老就任とともに始まる安政の大獄で幕吏の追及を受け,僧月照とともに帰藩した。
→関連項目ウィリス江戸開城大山巌木戸孝允キヨソーネ桐野利秋小松帯刀西郷従道佐賀の乱坂本竜馬相楽総三薩長同盟薩土盟約三職城山龍郷[町]鳥羽・伏見の戦野村望東尼橋本左内山岡鉄舟和泊[町]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

西郷隆盛 さいごう-たかもり

1828*-1877 江戸後期-明治時代の武士,政治家。
文政10年12月7日生まれ。西郷吉兵衛の長男。薩摩(さつま)鹿児島藩士。藩主島津斉彬(なりあきら)にみいだされるが,斉彬の没後,尊攘派(そんじょうは)対策で島津久光の怒りにふれて流罪,のちゆるされて藩政の主導権をにぎり,慶応2年坂本竜馬(りょうま)の仲介で倒幕の薩長同盟をむすぶ。4年戊辰(ぼしん)戦争を指導,江戸城の無血開城を実現。新政府の陸軍元帥兼参議となるが,征韓論などで大久保利通らと対立し,下野して帰郷。西南戦争をおこし,敗れて明治10年9月24日城山で自刃(じじん)した。51歳。前名は隆永。幼名は小吉,吉之介。通称は吉兵衛,吉之助。号は止水,南洲。変名に大島三右衛門,菊池源吾。
【格言など】天は人もわれも同一に愛す,故に我を愛する心をもって人を愛せよ

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朝日日本歴史人物事典の解説

西郷隆盛

没年:明治10.9.24(1877)
生年:文政10.12.7(1828.1.23)
明治維新元勲。鹿児島の下加治屋町に薩摩(鹿児島)藩小姓組西郷吉兵衛,マサの長男として生まれる。幼名は小吉,諱は隆永,のち隆盛,通称を小吉,のちに吉兵衛または吉之助と称し,南洲と号した。安政1(1854)年,藩主島津斉彬の庭方役に抜擢され,江戸で政治的手ほどきを受け,条約問題,一橋慶喜将軍擁立運動に奮闘。だが大老井伊直弼の登場で一橋派は敗北,同年7月には斉彬が鹿児島で病没したため絶望して同年11月鹿児島錦江湾に僧月照と投身したが,西郷のみ蘇生,奄美大島に流された。文久2(1862)年1月召還されて島津久光の朝幕周旋に働くが,久光に疑われ失脚,沖永良部島に監禁された。 元治1(1864)年に赦免され,軍賦役,小納戸頭取となり上京。慶応1(1865)年以降,幕府中心主義克服の道を模索,2年1月,土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介を得て薩長秘密同盟を締結。同年年末から翌3年1月の四侯会議で雄藩連合政権の結成を目指し奔走したが失敗。10月14日に討幕の密勅が薩長両藩に降下したが,同日将軍慶喜は大政奉還上表,翌日勅許された。その後も討幕の機会を執拗に追求。王政復古のクーデタで旧幕府側を挑発,同4年1月3日,京都に進軍する旧幕府軍を鳥羽・伏見の戦で撃退した。2月,東征大総督府参謀に就任,3月,勝海舟との会談で江戸無血開城に成功。しかし,彰義隊掃討戦(5月)のころから軍事指導権を長州の大村益次郎に奪われ,鹿児島に帰郷。明治2(1869)年2月,藩参政に就任,凱旋将兵の主張に沿って門閥打破,大規模常備軍の編成を柱とした藩政改革を推進。また,東京政府を公然と批判した。 明治3年暮れ,鹿児島に下向した勅使岩倉具視に,西郷は政府改革のいくつかの条件を認めさせ,翌4年1月に上京。同6月には提案した御親兵の編成が成り,参議に就任,廃藩置県の密議に賛同し成功に導いた。岩倉使節団が米欧に派遣された際は筆頭参議として留守政府を総理。外遊派は,新規事業と政府首脳部人事の凍結を西郷に誓約させたが,留守政府では各省が学制,徴兵制度,地租改正などの重要政策実現に邁進した。5年7月,陸軍元帥兼参議兼近衛都督に就任。華々しく推進される欧化主義的な諸施策に西郷は不満で,現状打破を望むようになった。そこに懸案の日朝国交問題が緊迫,6年6月の閣議で西郷は,自らが朝鮮に出張し,解決に当たりたいと非常な熱意で要望した。8月閣議はいったん西郷使節朝鮮派遣を決定,裁可されたが,発令は岩倉大使の帰国後とされた。10月,閣議は改めて西郷派遣を決定したが,参議大久保利通は猛烈に反対論を主張,岩倉,参議木戸孝允,同伊藤博文らが大久保を支持して連袂辞職を表明,対策に窮した太政大臣三条実美は急病を発して政務処断能力を喪失。同月23日,岩倉が太政大臣代理となり先の決定を覆し,使節派遣は中止された。即日,西郷は下野し,25日,板垣退助,後藤象二郎らも下野。征韓論政変である。 鹿児島に退去した西郷を追って薩摩出身の近衛士官,兵の多数が天皇の制止も聞かずに鹿児島に引き揚げた。7年6月に士族の教育,軍事訓練,開墾事業を推進する機関として鹿児島に設立した私学校の経営を腹心の桐野利秋,村田新八らに委ねて,西郷は悠々自適を決め込んだ。私学校党は鹿児島県政を掌握して,県官任免,禄制整理,地租改正,徴兵制という政府の主要な政策を拒絶し隠然半独立国の形勢をなし,対外的危機の到来を待って,内政大改革におよぼうと待機した。10年西郷は政府の挑発に激怒する大勢に押されて武力反乱の先頭に立つに至り,敗北を喫し,9月24日,鹿児島城山に自刃して果てた(西南戦争)。「敬天愛人」が座右の銘だった。<著作>大西郷全集刊行会編『大西郷全集』全3巻<参考文献>勝田孫弥『西郷隆盛伝』

(福地惇)

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防府市歴史用語集の解説

西郷隆盛

薩摩藩出身の志士。第一次長州征伐[だいいちじちょうしゅうせいばつ]では参謀として長州藩への対応にあたっています。薩長同盟[さっちょうどうめい]を成立させ、戊辰戦争[ぼしんせんそう]では各地の戦いで指揮をとりました。明治政府で要職につきましたが意見の対立から職をやめ、鹿児島に戻りましたが、1877年(明治10年)の西南戦争[せいなんせんそう]で政府軍に敗れて自刃しました。

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デジタル大辞泉プラスの解説

西郷隆盛

池波正太郎の伝記小説。1967年刊行。

西郷隆盛

海音寺潮五郎がライフワークとした“大長編史伝”。1976-80年刊行(未完)。1964年、1969-77年刊行の同名作品、1985年刊行の「史伝西郷隆盛」とは別物。

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世界大百科事典 第2版の解説

さいごうたかもり【西郷隆盛】

1827‐77(文政10‐明治10)
幕末・明治期の政治家。大久保利通,木戸孝允とともに明治維新の三傑と称される。薩摩国鹿児島城下で下級藩士の子に生まれた。幼名は小吉,吉之介,吉兵衛,吉之助,名は隆永のち隆盛,号は南洲。1844年(弘化1)郡方書役助ついで郡方書役となり,その間,農政に関する意見書で藩主島津斉彬に見いだされて側近に抜擢され,一橋慶喜将軍継嗣問題で活躍,天下に広く知られるようになった。しかし,58年(安政5)大老井伊直弼の登場と斉彬の急死で窮地に陥り,同志僧月照と鹿児島湾に投身自殺を試みたが西郷のみ蘇生。

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大辞林 第三版の解説

さいごうたかもり【西郷隆盛】

1827~1877) 維新の三傑の一人。通称、吉之助。号は南洲。薩摩藩の下級藩士の出。島津斉彬なりあきらの知遇を受け、国事に奔走。第二次長州征伐以後、倒幕運動の指導者となり、薩長同盟に尽力。大総督府参謀として征東軍を指揮して東下、江戸城を無血開城させた。維新後、参議。のち、征韓論の議を唱えたが入れられず下野、西南戦争に敗れて城山で自刃。 → 西南戦争

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

西郷隆盛
さいごうたかもり
(1827―1877)

幕末・明治初期の政治家。文政(ぶんせい)10年12月7日薩摩(さつま)国鹿児島城下の下加治屋(しもかじや)町に生まれる。薩摩藩士西郷吉兵衛隆盛(きちべえたかもり)の長男。幼名は小吉(こきち)、吉之介(きちのすけ)。父の死後吉兵衛を継ぎのち吉之助と改め、名を隆永、明治以後は父と同じ隆盛を称した。少年時代を貧苦のなかに過ごし、友人に大久保利通(おおくぼとしみち)、伊地知正治(いじちまさはる)らがいた。1844年(弘化1)18歳で郡方書役助(こおりかたかきやくすけ)、ついで書役となり27歳まで勤め、その間、農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬(なりあきら)にみいだされた。
 ペリー来航後の1854年(安政1)庭方役(にわかたやく)に抜擢(ばってき)され、斉彬の片腕となって、江戸や京都で一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を将軍継嗣(けいし)に擁立する運動を推進した。その過程で藤田東湖(ふじたとうこ)や橋本左内(はしもとさない)を知り、志士として天下に広く知られるようになった。1858年、反対派(紀州派)の井伊(いい)大老の登場と斉彬の急死で情勢が逆転し、幕府の追及で窮地にたった西郷は、11月同志僧月照(げっしょう)と鹿児島湾に投身自殺を試み、西郷のみ命を取り留めた。この事件で彼は天命を悟ったといわれる。彼の有名な「敬天愛人(けいてんあいじん)」の思想もこのあたりに胚胎(はいたい)したといえよう。幕府をはばかった藩庁は、西郷を菊池源吾(きくちげんご)と変名させ奄美(あまみ)大島に隠した。彼は島民のよき相談相手となって慕われた。
 1862年(文久2)島津久光(ひさみつ)が亡兄斉彬の遺志を継いで公武合体運動に着手するにあたって召還され、このとき大島三右衛門(おおしまさんえもん)と改名した。彼は久光の計画が杜撰(ずさん)であると批判的であり、また京坂(けいはん)の尊攘派(そんじょうは)鎮撫(ちんぶ)のため独断上坂したので久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島ついで沖永良部(おきのえらぶ)島に流された。島での生活の辛苦は彼の人物を鍛えたといわれる。
 1864年(元治1)参予会議の失敗で薩藩公武合体運動が行き詰まると、ふたたび召還され藩勢の回復にあたることになった。彼は軍賦役(いくさくばりやく)に任命され京都での政治工作に従事、蛤御門(はまぐりごもん)の変で薩軍を指揮して快勝、薩藩の地位を向上させた。同年側役(そばやく)に昇進、西郷吉之助と名のった。まもなく始まった第一次長州征伐において、征長軍の参謀に任じられて長州藩の無血降伏を実現し天下に名をあげた。その後幕薩関係が悪化すると、今度は第二次征長の阻止に動き、1866年(慶応2)木戸孝允(きどたかよし)との間で薩長盟約を結んだ。1867年になると倒幕を決意し、大久保とともに藩をその方向にまとめ、土佐藩、安芸(あき)藩と提携し、徳川慶喜が大政奉還の挙に出ると、その逆をついて王政復古のクーデターに持ち込み、明治維新政府の誕生に大きな功績をたてた。1867年12月参与に任命され、1868年(慶応4)戊辰(ぼしん)戦争では東征大総督府参謀となり、勝海舟(かつかいしゅう)との会談で江戸城無血開城に成功、ついで庄内(しょうない)藩討伐にあたり寛大な処置で庄内士民に敬慕された。戦功により賞典禄(しょうてんろく)2000石。戦後は鹿児島に引退したが、やがて藩主島津忠義(ただよし)に請われて藩の参政のち大参事に就任、門閥打破の藩政改革を指導した。
 1871年(明治4)政府強化を期す岩倉具視(いわくらともみ)、大久保らの求めに応じて政府に入り、薩長土3藩から招致した軍隊による御親兵の設置に尽力し、6月参議に就任、7月の廃藩置県に主導的役割を果たした。11月岩倉使節団の米欧巡遊出発後、筆頭参議兼大蔵省御用掛として、留守政府が推進した急進的改革政策を指導、1872年明治天皇の中四国九州巡幸に随行し、帰京後、陸軍元帥兼参議、近衛都督(このえととく)。1873年陸軍大将兼参議。同年5月、朝鮮釜山(ふざん)の大日本公館をめぐって日朝間にトラブルが発生し、閣議で参議板垣退助(いたがきたいすけ)は出兵論を主張したが、西郷は反対し、自ら使節となって朝鮮に渡り平和的交渉によって日朝間の国交の正常化を実現したい旨を論じた。8月、閣議は西郷の要望をいれ朝鮮派遣使節に内定した。ところが太政大臣(だじょうだいじん)三条実美(さんじょうさねとみ)は西郷の平和的交渉論を征韓論と誤解し、9月に帰国した右大臣岩倉具視と謀って西郷派遣の延期を求めたが西郷に断られた。10月15日の閣議で西郷の朝鮮派遣が正式に決定され、三条は苦悩のあまり人事不省に陥り執務不能となった。そこで岩倉が太政大臣代理となり、大久保利通、伊藤博文(いとうひろぶみ)と組んで、天皇に閣議決定を裁可しないように求めて、西郷使節派遣を葬った。23日西郷はこの処置に抗議の辞表を出し、翌24日板垣退助、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、江藤新平(えとうしんぺい)、副島種臣(そえじまたねおみ)の各参議も抗議辞職して政府は大分裂した。この政変は、通説では西郷が征韓論に敗れて辞職したものとされているが、真相は以上のとおりであり、西郷は征韓論に反対し、平和的道義的交渉による日朝国交の正常化を求め、朝鮮使節を切望したのである。
 西郷は帰郷引退し鹿児島で子弟の訓育にあたった。しかし、1877年私学校派士族が政府に挑発されて反乱(西南戦争)を起こすと、心ならずも擁せられ、9月24日鹿児島城山(しろやま)で戦死した。[毛利敏彦]
『大西郷全集刊行会編『大西郷全集』全3巻(1926~1927・平凡社) ▽西郷隆盛全集編集委員会編『西郷隆盛全集』全6巻(1976~1980・大和書房) ▽毛利敏彦著『明治六年政変』(中公新書) ▽小川原正道著『西南戦争――西郷隆盛と日本最後の内戦』(中公新書)』

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世界大百科事典内の西郷隆盛の言及

【江戸開城】より

…江戸に迫った東征大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王以下の新政府軍は,3月6日江戸城進撃の日を3月15日と決めた。旧幕府陸軍総裁勝海舟(安房)は,山岡鉄舟(鉄太郎)を大総督府参謀西郷隆盛のもとに派遣し,戦乱による人民蜂起の危険を説いた。イギリス公使パークスの戦争反対の意向も聞いた西郷は,13日,14日と勝と会談し,無血開城で合意し,総攻撃を中止のうえ,上京して慶喜処分案の朝裁をえた。…

【勝海舟】より

…66年(慶応2)幕府の第2次征長戦が難航したため軍艦奉行に復職,安芸の宮島に出張して長州藩との停戦交渉に成功したが,政策決定の主体を雄藩代表らの合議体に移そうとする構想が最後の将軍となる徳川慶喜と対立,江戸に戻って軍艦奉行の日常業務にたずさわるうちに京都の政局は68年鳥羽・伏見の戦まで進む。幕府でなくなった徳川の新体制のもとで海舟は海軍奉行並から陸軍総裁,さらに軍事取扱となって東征軍にたちむかい,江戸総攻撃予定日の前夜,西郷隆盛と会見し,薩摩藩や長州藩が存続するかぎり徳川も藩として生き残る権利があるとの主張を認めさせ,無血開城への道を開いた(江戸開城)。同年,徳川家に従って駿府に移住,69年(明治2)安芳と改名。…

【私学校】より

…鹿児島に設立された鹿児島士族中心の学校。西郷隆盛がいわゆる征韓論で下野した後,1874年6月,旧厩跡に設立された。本校は旧近衛兵の銃隊学校と砲兵出身者による砲隊学校よりなる。…

【人名】より

…滝沢馬琴の公式の名は源興邦(おきくに)であるが,彼は本名のほか34の名をもっていたことで知られる。西郷隆盛についていえば,氏姓は平朝臣(たいらのあそん),家名は西郷,幼名は小吉,諱は隆盛,通称は吉之助,雅号は南洲である。現在,戸籍に登録できる名は一つであるが,さまざまな別号や異名をもつ人が少なくない。…

【西南戦争】より

…1877年(明治10)に起こった西郷隆盛を中心とする鹿児島県士族の反政府暴動で,明治初年の士族反乱の最大で最後のもの。
[背景と発端]
 明治6年10月の政変(1873,征韓論分裂)で,近衛都督兼参議を辞した西郷隆盛が郷里鹿児島に帰るや,桐野利秋や篠原国幹らも相ついで辞職・帰県し,私学校などを中心に,鹿児島士族は一大勢力をなした。…

【長州征伐】より

…一方,長州藩内では幕府への恭順を唱える保守派が台頭し,また,4国連合艦隊による下関砲撃などがなされ,この内憂外患のなかで藩内事情は複雑な様相を呈していた。この情況をみて征長軍の参謀・薩摩藩士西郷隆盛は,長州を死地に追い込むことを避け,長州藩の本・支藩の離間策や藩内の分裂化をすすめることによって,手を下さずして制圧することを主張した。西郷は一面では尊攘派の拠点長州をたたき,他面では幕府の権威回復を妨げようと意図していたのである。…

※「西郷隆盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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