前田 多門
マエダ タモン
- 肩書
- 文相,貴院議員(勅選),公明選挙連盟理事長
- 生年月日
- 明治17年5月11日
- 出生地
- 大阪
- 学歴
- 東京帝大法科大学独法科〔明治42年〕卒
- 経歴
- 明治42年内務省に入り、都市計画課課長などを経て、大正9年東京市第三助役、11年東京市政調査会を設立。12年ILO政府代表としてジュネーブへ。昭和3年朝日新聞論説委員。13年退社後はニューヨークの日本文化会館館長、18年新潟県知事など歴任。20年貴院議員となり、東久邇内閣の文相に就任。幣原内閣でも留任し、異色の人材を起用し教育改革を推進するが公職追放となり、東京通信工業(現・ソニー)社長に就任。その後、日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長、公明選挙連盟理事長などを歴任した。著書に「国際労働」「地方自治の話」「アメリカ人の日本把握」など。
- 没年月日
- 昭和37年6月4日
- 家族
- 長男=前田 陽一(東大名誉教授・仏文学者)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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前田 多門
マエダ タモン
明治〜昭和期の政治家 公明選挙連盟理事長;文相;貴院議員(勅選)。
- 生年
- 明治17(1884)年5月11日
- 没年
- 昭和37(1962)年6月4日
- 出生地
- 大阪
- 学歴〔年〕
- 東京帝大法科大学独法科〔明治42年〕卒
- 経歴
- 明治42年内務省に入り、都市計画課課長などを経て、大正9年東京市第三助役、11年東京市政調査会を設立。12年ILO政府代表としてジュネーブへ。昭和3年朝日新聞論説委員。13年退社後はニューヨークの日本文化会館館長、18年新潟県知事など歴任。20年貴院議員となり、東久邇内閣の文相に就任。幣原内閣でも留任し、異色の人材を起用し教育改革を推進するが公職追放となり、東京通信工業(現・ソニー)社長に就任。その後、日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長、公明選挙連盟理事長などを歴任した。著書に「国際労働」「地方自治の話」「アメリカ人の日本把握」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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前田多門 まえだ-たもん
1884-1962 明治-昭和時代の官僚,政治家。
明治17年5月11日生まれ。内務省勤務から東京市助役となり,東京朝日新聞論説委員,新潟県知事,貴族院議員を歴任する。戦後,東久邇(ひがしくに)内閣,幣原(しではら)内閣の文相となるが公職追放。のち日本育英会,日本ILO協会などの会長をつとめる。昭和37年6月4日死去。78歳。大阪出身。東京帝大卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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前田 多門 (まえだ たもん)
生年月日:1884年5月11日
明治時代-昭和時代の政治家;実業家。公明選挙連盟理事長;東京通信工業(現・ソニー)社長
1962年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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