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加納久周 かのう ひさのり

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美術人名辞典の解説

加納久周

江戸後期の大名。伊勢東阿倉川藩加納家第三代当主。幕臣大岡忠光の次男、加納久堅の養子。幼名は久弥。松平定信と共に寛政の改革の推進につとめた。従五位下、遠江守。文化8年(1811)歿、59才。

出典|(株)思文閣
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

加納久周 かのう-ひさのり

1753-1811 江戸時代中期-後期の大名。
宝暦3年生まれ。大岡忠光の次男。加納久堅(ひさかた)の養子となり,天明6年伊勢(いせ)(三重県)東阿倉川藩主加納家3代。松平定信と親交をむすび,定信が寛政の改革にのりだすと,若年寄格として改革の推進に活躍。文化8年6月2日死去。59歳。号は長翁。

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朝日日本歴史人物事典の解説

加納久周

没年:文化8.6.2(1811.7.21)
生年:宝暦3(1753)
江戸後期の上総国一宮藩主。通称久弥,晩年長翁と号す。幕臣大岡忠光の次男,安永1(1772)年一宮藩主加納久堅の養子となる。同年将軍徳川家治に御目見,天明6(1786)年10月襲封。同7年大番頭に進み,寛政5(1793)年若年寄に準ぜられた。一宮藩領は伊勢,上総,下総にあり,あわせて1万石であったが,同8年上野国において3000石加増,同10年その陣屋を伊勢国八田から上総国一宮に移し,天保以降の藩政改革の基礎をつくった。この間,寛政改革ブレーンとして松平定信を大いに助けた。<参考文献>松平定信『宇下人言

(川村優)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

かのうひさのり【加納久周】

1753‐1811(宝暦3‐文化8)
伊勢八田,のち上総一宮藩主。9代将軍徳川家重側用人として権力をふるった大岡忠光の次男として生まれ,1772年(安永1)若年寄加納久堅の養子となった。田沼政権下にあっては,松平定信を中心とした反田沼グループに参加,87年(天明7)寛政改革の開始と同時に御側となり,改革政治の推進勢力の一人として活躍した。定信は,その著《宇下人言(うげのひとこと)》の中で,〈人となり剛直,至てよく人をみる,又偉人〉と評し,〈初て牧野備前守かたにてあひ,忽ち信じて信友となる〉と,信頼の深さを記している。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

加納久周
かのうひさのり

[生]宝暦3(1753)
[没]文化8(1811)
江戸時代,9代将軍徳川家重の側近大岡忠光の次男。上総一宮藩主で若年寄に準じ,寛政 12 (1800) 年 11月伏見奉行となる。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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