加納久周(読み)かのうひさのり

改訂新版 世界大百科事典 「加納久周」の意味・わかりやすい解説

加納久周 (かのうひさのり)
生没年:1753-1811(宝暦3-文化8)

伊勢八田,のち上総一宮藩主。9代将軍徳川家重の側用人として権力をふるった大岡忠光次男として生まれ,1772年(安永1)若年寄加納久堅養子となった。田沼政権下にあっては,松平定信を中心とした反田沼グループに参加,87年(天明7)寛政改革の開始と同時に御側となり,改革政治の推進勢力の一人として活躍した。定信は,その著《宇下人言(うげのひとこと)》の中で,〈人となり剛直,至てよく人をみる,又偉人〉と評し,〈初て牧野備前守かたにてあひ,忽ち信じて信友となる〉と,信頼の深さを記している。久周はその後93年に若年寄格となり,97年に辞職
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関連語 大石

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加納久周」の解説

加納久周 かのう-ひさのり

1753-1811 江戸時代中期-後期大名
宝暦3年生まれ。大岡忠光の次男。加納久堅(ひさかた)の養子となり,天明6年伊勢(いせ)(三重県)東阿倉川藩主加納家3代。松平定信と親交をむすび,定信が寛政の改革にのりだすと,若年寄格として改革の推進に活躍。文化8年6月2日死去。59歳。号は長翁。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「加納久周」の意味・わかりやすい解説

加納久周
かのうひさのり

[生]宝暦3(1753)
[没]文化8(1811)
江戸時代,9代将軍徳川家重の側近大岡忠光の次男。上総一宮藩主で若年寄に準じ,寛政 12 (1800) 年 11月伏見奉行となる。

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