加藤 恒忠
カトウ ツネタダ
- 肩書
- 貴院議員(勅選),衆院議員,松山市長
- 旧名・旧姓
- 旧姓=大原
- 別名
- 幼名=忠三郎 号=加藤 拓川(カトウ タクセン)
- 生年月日
- 安政6年1月22日(1859年)
- 出生地
- 伊予国松山(愛媛県松山市)
- 学歴
- 司法省法学校中退 パリ法科大学
- 経歴
- 松山藩儒者大原有恒(観山)の三男に生まれる。明治9年司法省法学校入学、原敬、陸羯南らと同級になり親交を結ぶ。16年パリ法科大学に入学、19年パリ在留のまま交際官(外交官)試補となり、その後外務省参事官、ベルギー駐在特命全権公使等を歴任。39年スペイン皇帝結婚式に参列。40年辞職し、41年衆院議員に当選。大阪新報社長兼任。45年〜大正12年勅選。貴院議員をつとめ、8年特命全権大使としてシベリへ出張、反赤軍を支持。また第一次大戦後は国際連盟協会愛媛支部長として平和思想の普及に尽力。晩年は11年松山市長に推された。遺稿集「拓川集」(全6巻)がある。子規の母八重は長姉にあたる。
- 没年月日
- 大正12年3月26日
- 家族
- 父=大原 有恒(儒者)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
Sponserd by 
加藤 恒忠
カトウ ツネタダ
明治・大正期の外交官,政治家 貴院議員(勅選);衆院議員;松山市長。
- 生年
- 安政6年1月22日(1859年)
- 没年
- 大正12(1923)年3月26日
- 出生地
- 伊予国松山(愛媛県松山市)
- 旧姓(旧名)
- 大原
- 別名
- 幼名=忠三郎,号=加藤 拓川(カトウ タクセン)
- 学歴〔年〕
- 司法省法学校中退,パリ法科大学
- 経歴
- 松山藩儒者大原有恒(観山)の三男に生まれる。明治9年司法省法学校入学、原敬、陸羯南らと同級になり親交を結ぶ。16年パリ法科大学に入学、19年パリ在留のまま交際官(外交官)試補となり、その後外務省参事官、ベルギー駐在特命全権公使等を歴任。39年スペイン皇帝結婚式に参列。40年辞職し、41年衆院議員に当選。大阪新報社長兼任。45年〜大正12年勅選。貴院議員をつとめ、8年特命全権大使としてシベリへ出張、反赤軍を支持。また第一次大戦後は国際連盟協会愛媛支部長として平和思想の普及に尽力。晩年は11年松山市長に推された。遺稿集「拓川集」(全6巻)がある。子規の母八重は長姉にあたる。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
Sponserd by 
加藤恒忠
没年:大正12.3.26(1923)
生年:安政6.1.22(1859.2.24)
明治大正期の外務官僚。拓川と号す。松山藩(愛媛県)大原有恒の3男で明治13(1880)年加藤家を継いだ。9年に司法省法学校入学,中退後仏学塾に学んだ。16年パリ法科大に入学,19年帰国とともに外交官試補となりフランス公使館勤務,35年ベルギー公使,40年に万国赤十字会議全権に就任したが,政府側と対決して辞職,衆議院に立候補,当選した。のちに大阪新報社長に就任。大正1(1912)年貴族院議員になり,パリ講和会議(1919)に随員として出席,8年シベリア派遣臨時大使となり反赤軍を支援,11年松山市長に就任。<参考文献>景浦勉編『愛媛の先覚者』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
Sponserd by 
加藤恒忠 かとう-つねただ
1859-1923 明治-大正時代の外交官,政治家。
安政6年1月22日生まれ。フランスに留学後,外務省にはいり,ベルギー公使などを歴任。明治41年(1908)衆議院議員。のち貴族院議員。北浜銀行頭取,大阪新報社長をつとめた。大正11年松山市長。大正12年3月26日死去。65歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。司法省法学校中退。旧姓は大原。号は拓川。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
Sponserd by 
加藤 恒忠 (かとう つねただ)
生年月日:1859年1月22日
明治時代;大正時代の外交官;政治家。松山市長;衆議院議員
1923年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
Sponserd by 