朝日日本歴史人物事典 「加藤明成」の解説
加藤明成
生年:文禄1(1592)
江戸初期の大名。陸奥国会津藩(福島県)藩主。父は嘉明,母は家臣堀部市右衛門の娘,山城国(京都府)生まれ。通称孫次郎。式部少輔,侍従。元和1(1615)年,父が江戸留守居のため大坂城攻撃に出陣した。寛永8(1631)年,父の遺領会津40万石を継ぐ。11年将軍徳川家光の上洛に供奉し,16年には会津若松城の大改修を行った。この年に家臣堀主水の出奔事件が起こり,堀は幕府に明成の苛政を訴えた。明成は堀を処罰してから,20年,病気を理由に会津40万石の返上を幕府に願い出て許された。子の明友には石見国(島根県)吉永に1万石が与えられた。吉永で死去。領地返上,没収は,直接的には堀主水出奔事件が原因であるとされているが,江戸城普請工事や会津若松城の城郭改修による財政難を打開するため,領内の収奪を強める明成の支配の在り方が,撫民政策をとる幕府の方針に相違したことも関係していると考えられ,結局は領内支配の動揺を明成は収拾できなかった。退隠後,休意と号した。
(長谷川成一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報