ジグムント(読み)じぐむんと(その他表記)Zygmunt Ⅲ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジグムント」の意味・わかりやすい解説

ジグムント(3世)
じぐむんと
Zygmunt Ⅲ
(1566―1632)

ポーランド王(在位1587~1632)。スウェーデン王(在位1592~1599)。通称バーザWaza。スウェーデン王ヨハン3世Johan Ⅲ(1537―1592、在位1568~1592)の子。ハプスブルク家のマクシミリアン大公と争って王位を得たが、スウェーデン王位を獲得するために親ハプスブルク的政策をとり、また王権の強化を企てたため、シュラフタ(貴族)層の不信を招いた。彼の統治に対する不満はゼブジドフスキMikołaj Zebrzydowski(1553―1620)の反乱をもたらした。ロシアの動乱時代にはモスクワ公国に干渉し、一時はモスクワを占領するに至り、ツァーリの位の獲得には失敗したが、1618年のデウリノ休戦によって、スモレンスクチェルニヒウをポーランド領に復帰させた。さらに、ポーランドをトルコやスウェーデンとの戦争に引き込み、ポーランドの国力を弱めた。また、熱心なカトリック教徒であったため、合同教会(ギリシア正教の典礼を保持したうえで、ローマ教皇主権を認めたもの)を設立し、反宗教改革を活発にさせた。

[安部一郎 2022年6月22日]

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百科事典マイペディア 「ジグムント」の意味・わかりやすい解説

ジグムント[1世]【ジグムント】

ポーランド国王(在位1506年―1548年)。ロシアと3度戦って勝ち,ドイツ騎士修道会を破って東プロイセン公国を建てた。通貨改革,農業振興など内政改善に努力し,学術保護にも熱心でルター主義導入伝播もその成果一つ

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世界大百科事典(旧版)内のジグムントの言及

【ポーランド】より

…しかし,リトアニアと結び付くことで,ポーランドは新たな対外問題に直面することにもなった。すでに1525年,ルター主義の普及で崩壊の危機にしたドイツ騎士団を,ジグムント1世父王Zygmunt I Stary(1467‐1548。在位1506‐29)はプロイセン公国としてその保護下に置いたが,61年にジグムント2世アウグストZygmunt II August(在位1529‐72)は,同じ危機に直面したリボニアの刀剣騎士団の旧領地の西半分をクールラント公国としてその保護下に置くとともに,その東半分をポーランドに併合してしまった。…

【ポーランド美術】より

…ブワディスワフ2世ヤギエウォは1418年ルブリンの王宮礼拝堂その他に,またカジミエシュ4世も1470年プスコフの画家に依頼してクラクフのバベル城内大聖堂の礼拝堂にビザンティン・ロシア様式のフレスコ画を描かせている。 16世紀はじめ,若き日にハンガリーの宮廷でマーチャーシュ1世以来のイタリア・ルネサンスの成果に接したジグムント1世父王は,ハンガリーで制作していたフィレンツェの芸術家たちをクラクフに呼び,バベル城の王宮をルネサンス様式で再建させ,大聖堂内に,東欧における現存するルネサンスの最高傑作であるジグムント礼拝堂を作らせた。それらはポーランドのルネサンスの嚆矢(こうし)であり,貴族や高位聖職者によって模倣された。…

【ヤギエウォ朝】より

…その後カジミエシュ4世の長子ブワジスワフがボヘミア王位,次いでハンガリー王位にも迎えられて(ボヘミアではブラジスラフ2世Vladislav II,ハンガリーではウラースロー2世Ulászló IIと呼ばれる),ハプスブルク家と覇を争うまでになったが,その子ルドビクLudwik(ボヘミア王ルドビーク1世Ludvík I)がオスマン・トルコとのモハーチの戦で落命してボヘミア・ハンガリー王位を失う。ポーランドの王家も第7代ジグムント2世アウグストZygmunt II Augustで男系が絶えて断絶する。こののち選挙王制下でジグムント2世の甥がジグムント3世として,またその子らがそれぞれブワジスワフ4世,ヤン2世カジミエシュJan II Kazimierzとしてポーランド王に選ばれている。…

※「ジグムント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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