日本歴史地名大系 「勝光明院跡」の解説
勝光明院跡
しようこうみよういんあと
京都市伏見区に所在した
〈京都・山城寺院神社大事典〉
〔草創〕
鳥羽北殿御所は南殿御所に次いで寛治二年(一〇八八)南殿の北に造営され、北殿の東には北殿御堂こと勝光明院が造営された。造営の奉行にあたった源師時の日記「長秋記」長承三年(一一三四)六月三日条に「抑此堂事、念全已及一年、而一事無沙汰切事、供養雖無其期、尚可令也」とあり、鳥羽上皇の発願で造営が企図されたのは前年であったが工事が進展せず、同年四月一九日立柱上棟がなされた後も遅々とした状態だったようである。両三年を経た保延二年(一一三六)三月二三日完成し、この日鳥羽上皇・崇徳天皇の行幸を得て、天台座主忠尋を導師、覚猷僧正を呪願として勝光明院御堂供養が行われた(元亨釈書・中右記)。この間、長承三年五月一日には仏師賢円・絵師応源・工季貞等が、平等院に赴いて諸事を調査し、この御堂作事にあたっており、勝光明院が宇治平等院阿弥陀堂を写して建造されたことがわかる。
〔建物と荘厳〕
「中右記」保延二年三月二三日条に「御堂東面向前池被写宇治平等院、伊与守忠隆造進也荘厳風流過差美麗也、 丈六阿弥陀仏安置」とあり、堂は東面し、前には池が配された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報