奈良末から平安初期の公卿(くぎょう)。父は乎麻呂(おまろ)、姉は広虫(ひろむし)(法均(ほうきん))。長子広世(ひろよ)、5子真綱(まつな)、6子仲世(なかよ)らの父。備前(びぜん)国藤野郡(岡山県和気郡)の人。本姓は磐梨別公(いわなしわけのきみ)。淳仁(じゅんにん)朝に仕えたが、恵美押勝(えみのおしかつ)追討の功により765年(天平神護1)勲六等を授けられた。時に右兵衛少尉(うひょうえのしょうじょう)、従(じゅ)六位上。ついで藤野別真人(ふじののわけのまひと)を改めて吉備(きび)藤野和気(わけ)真人を賜った。翌年従五位下。769年(神護景雲3)輔治能(ふじの)真人。同年大宰主神習宜阿曽麻呂(だざいのかんづかさすげのあそまろ)は道鏡(どうきょう)に媚(こ)び宇佐八幡(うさはちまん)の神教と偽って道鏡を皇位に即(つ)ければ天下太平ならんと奏上した。称徳(しょうとく)女帝は大いに迷い、清麻呂を召し姉法均(ほうきん)にかわって神教を確かめるよう命じた。その出発にあたり道鏡は清麻呂に威嚇(厳罰)と懐柔(大臣)の二策を試み、道鏡の儒学の師路豊永(みちのとよなが)は、道鏡即位せば我は今日の伯夷(はくい)たらん(隠棲(いんせい)する)と哀訴した。意を決した清麻呂は宇佐から帰るとただちに「天(あま)つ日嗣(ひつぎ)は必ず皇儲(こうちょ)(皇統に連なる人)を立てよ。無道の人は宜(よろ)しく早(すみやか)に掃(はら)い除くべし」との神教を奏上した。激怒した道鏡は清麻呂の官爵を削り名も別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改めて大隅(おおすみ)(鹿児島県)に配流した。翌年女帝が崩じ光仁(こうにん)天皇が即位するとただちに召還され、ついで本位従五位下に復し、和気公(わけのきみ)、和気宿禰(すくね)を経て774年(宝亀5)和気朝臣(あそん)を賜った。784年(延暦3)長岡造京の功により従四位上、796年平安京造営の功により従三位(じゅさんみ)に昇る。この間平安遷都を建議し、摂津大夫(せっつのだいぶ)としては大和(やまと)川を西に通じて難波(なにわ)の洪水を除かんとした。799年に没して正三位を贈られたが、降って1851年(嘉永4)正一位護王(ごおう)大明神の神階神号を授けられ、86年(明治19)京都市上京(かみぎょう)区の護王神社に祀(まつ)られた。
[黛 弘道]
(増渕徹)
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奈良中期より平安初期にかけての官人。本姓は磐梨別公(いわなすわけのきみ),また藤野別真人(ふじのわけのまひと)を称し,和気宿禰(すくね)さらに和気朝臣に改姓された。備前国藤野郡に生まれ,その後,孝謙(称徳)天皇に近侍していた姉和気広虫の引きによって,おそらく兵衛(とねり)として出仕したものと思われる。《続日本紀》にはじめて名が記録されるのは,765年(天平神護1)従六位上,右兵衛少尉のときで,広虫とともに称徳天皇に重用された。やがて皇位を望んだ僧道鏡の事件にさいし,姉に代わって宇佐八幡に使し,神託をうけてこれを阻止した(宇佐八幡宮神託事件)。そのため一時別部穢麻呂と名をかえられ,大隅国に流されたが,光仁天皇の即位とともに770年(宝亀1)京に召されてもとの従五位下に復し,桓武天皇の側近として活躍した。長岡京造営には陰の役割をはたし,従四位下より正四位下に昇叙し,ついで平安京造営には造宮大夫として事業をにない,従三位に叙せられ,公卿に列した。この間,摂津大夫として水利事業を進め,民部大輔として〈民部省例〉を撰するなど,民政にあかるく,さらに美作・備前両国国造(くにのみやつこ)に任ぜられ,故郷の百姓の利益にも力をつくした。799年姉広虫についで没したときは民部卿・造営大夫・従三位で,正三位を贈られた。人となり高直,匪躬の節ありと評された。
執筆者:平野 邦雄
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733~799.2.21
8世紀後半の公卿。備前国藤野郡を本拠とする豪族和気氏の出身で,しばしば改氏姓があった。姉の広虫(ひろむし)(法均尼)とともに孝謙(重祚して称徳)天皇に重用され,764年(天平宝字8)恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で活躍。766年(天平神護2)従五位下。769年(神護景雲3)道鏡(どうきょう)を皇位にたてるべきとした宇佐八幡宮の神託を偽りと奏したため,別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名され大隅国へ配流。翌年称徳天皇が没し召還され,771年(宝亀2)本姓・本位に復した。のち摂津大夫・民部大輔・中宮大夫を歴任。この間長岡京造営に功があったが,ひそかに新都造営を上奏し,平安京の造営大夫に任じられた。799年(延暦18)没し,正三位を追贈。
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…当時大宰帥は道鏡の弟弓削浄人(ゆげのきよと)であるから,合意のうえの奏上であろう。天皇は夢に八幡神が,神教を聴かせるから尼法均(和気広虫)を派遣せよとあるが,法均は女で軟弱,遠路にたえがたいからと,その弟和気清麻呂を宇佐に派遣した。彼は神前で託宣を請うと,その神託は〈道鏡を天位につかしめば〉という前回と同様であった。…
…京都市上京区に鎮座。和気清麻呂と姉広虫を主神とし,藤原百川(ももかわ),路豊永を配祀する。清麻呂は藤原仲麻呂の乱平定,道鏡追放,平安遷都などで功をあげたが,そのゆかりの神護寺に,平安末期文覚(もんがく)がその霊社を建ててまつっていた。…
※「和気清麻呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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