北中島村(読み)きたなかしまむら

日本歴史地名大系 「北中島村」の解説

北中島村
きたなかしまむら

[現在地名]矢部町北中島

東は金内かねうち村、西は八勢やせ(現御船町)に接し、なめり川が西流する。日向往還が東西に横切り、赤子谷あかごだん急坂には一二〇メートルにわたり石畳が残る。慶長国絵図に村名はみえないが慶長一二年(一六〇七)検地帳が作成されている(「肥後豊後検地諸帳目録」県立図書館蔵)。矢部手永に属し正徳四年(一七一四)からは一時期中島手永に属したが、のち旧に復した。「国誌」は小村として大星おおぼし村・小星こぼし村・瀬戸せと村・小家園(小屋)村・小津留こづる村・なか村・荒樫野村・水野多尾みずのたお(水ノ田尾)村を記す。水ノ田尾は熊本と馬見原まみはら(現阿蘇郡蘇陽町)双方から七里半、また御船みふねはま町間の集落で、小さな宿場であった。


北中島村
きたなかしまむら

[現在地名]那賀川町北中島

中島村の北、那賀川河口北方に位置する。慶長二年(一五九七)の分限帳には細山(賀島)主水佐知行分のうちに北中島がみえ、高二〇一石余。正保国絵図では高二〇三石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方一六八石余・畑方三五石余。明暦四年(一六五八)の棟付帳(那賀川町蔵)によれば高二〇六石余。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高二一五石余。「阿波志」によると水陸田二二町九反余、高二一九石の大率は采地旧高旧領取調帳では蔵入地高一〇石余、高四〇六石余が賀島弥右衛門ら三名の知行。明暦四年の前掲棟付帳によると家数三一・男八六、牛九・馬五。享保六年(一七二一)の棟付帳(那賀川町蔵)によれば家数四〇、うち百姓一〇・庄屋等二・先規奉公人一四・山伏二、人数男六五、うち百姓九・庄屋等四・五人組二・行き九・先規奉公人三六・山伏二・走り人一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android