日本歴史地名大系 「北八朔村」の解説 北八朔村きたはつさくむら 神奈川県:横浜市緑区北八朔村[現在地名]緑区北八朔町・下谷本(しもやもと)町・千草台(ちぐさだい)・藤が丘(ふじがおか)二丁目・梅が丘(うめがおか)・西八朔(にしはつさく)町・小山(こやま)町・川和(かわわ)町・市(いち)ヶ尾(お)町北・西・南は丘陵続きに下谷本村・西八朔村・小山村・青戸(あおと)村と接する。東は谷本川左岸の川和村。その間に当村・川和村・谷本村三ヵ村共有の精進場(しようじんば)橋(現精進橋)があった(風土記稿)。ほぼ南流する谷本川に沿って平地がある。「和名抄」の針斫(ばさく)郷の遺称地とされる。承元三年(一二〇九)一〇月の某家政所下文(県史一)に「八佐古」とみえる。小田原衆所領役帳に笠原藤左衛門「廿三貫百八拾文 小机八朔」、三郎殿「廿貫四百八十文 小机八朔 代官小野与三郎」とある。正保国絵図では北八朔村・西八朔村の二村に分れているが、幕末になっても、慶応三年(一八六七)九月の岡上村等八ヶ村秣場減少につき新開赦免願(県史八)のように八朔村と記したり、天保一一年(一八四〇)の加助郷書上帳(保土ヶ谷区郷土史)に両八朔村と記すように、二村合せて一村として扱うこともあった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by