北新村(読み)きたしんむら

日本歴史地名大系 「北新村」の解説

北新村
きたしんむら

[現在地名]奈良市北新町・二条大路南にじようおおじみなみ一―三丁目付近

秋篠あきしの川と佐保川の間に立地。近世初期は菅原すがはら村のうち。旗本石河氏(貞政系)領。慶応三年(一八六七)の和州添下郡北新村明細帳(天理図書館文書)に「慶長八癸卯年菅原村より出申候村ニ御座候」とあるが、耕作の便をもとめて一部の住民が垣内をつくったもので、高を分けて独立したわけではない。

元和郷帳・寛永郷帳にはみえず、元禄郷帳の添上郡に一三七・八一七石の北新村、添下郡に一九四・二四一石の北新村が登場。菅原村から分離独立した年次は寛永一六年(一六三九)から元禄一五年(一七〇二)までの間と推定できる。


北新村
きたしんむら

[現在地名]黒部市北新

東は三日市みつかいち村、西は堀切新ほりきりしん村。通称栄町さかえまち。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二九石、免三ツ六歩(三箇国高物成帳)。享保八年(一七二三)から六度の手上高により、天保一一年(一八四〇)の草高五八石余(「高免帳」杉木家文書)。すでに天保六年から高橋新たかはししん村とともに堀切新村へ寄肝煎を仰せ付けられ、一村同様の状態であった。


北新村
きたにいむら

[現在地名]松本市新村 北新

天正検地の際は八四五石三斗と高付けされる。慶安検地の際は上新村・下新村を分けたので、北新村自体は五三〇石五斗二升一合。「信府統記」に「御朱印高四百七拾石二升四勺」とあり、享保九年(一七二四)当時の石高は七二四石六斗三升一合四勺。寛文年間(一六六一―七三)の水田七三町七段二七歩、畑地二一町四畝二三歩。

村の中心である北新耕地の北に岩崎大明神がある。「信府統記」に「岩崎大明神・北新村当社ハ諏訪明神ト同体ナリ、仁寿三勧請、凡ソ八百六十有余年ニ成ル、本社東向、舞屋四間、三間鳥居アリ」と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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