葉室定嗣(読み)はむろさだつぐ

改訂新版 世界大百科事典 「葉室定嗣」の意味・わかりやすい解説

葉室定嗣 (はむろさだつぐ)
生没年:1208-72(承元2-文永9)

鎌倉中期の公卿。初名光嗣。のち高嗣と改め,さらに定嗣と改名。父の権中納言光親は後鳥羽上皇近臣として活躍したが,承久の乱に際し,責任を負って斬刑に処され,長男光俊も配流された。次男の定嗣もしばらく官位昇進が停滞したが,しだいに実務の才を発揮し,蔵人,左衛門権佐,右少弁の三事を兼帯し,1242年(仁治3)蔵人頭より参議に昇った。後嵯峨天皇の信任をこうむり,46年(寛元4)天皇の譲位に当たり,別当に補され,院中の雑事いっさいを奉行すべき命をうけた。すなわち執権である。また翌年院中に評定衆が置かれるや,それに選任され,さらに伝奏に任ぜられ,正三位権中納言に進んだ。しかし50年(建長2)出家して定然と号し,葉室の別業に隠棲した。その日記《葉黄記(ようこうき)》は,後嵯峨院政期の貴重な史料である。
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朝日日本歴史人物事典 「葉室定嗣」の解説

葉室定嗣

没年:文永9.6.26(1272.7.22)
生年承元2(1208)
鎌倉中期の公卿。承久の乱(1221)の首謀者として誅された権中納言藤原光親の子。母は参議藤原定経の娘。初名光嗣,次いで高嗣,定嗣。建保2(1214)年叙爵。但馬守,美濃守,蔵人,弁官を歴任し,仁治2(1241)年に蔵人頭。翌年参議となって公卿に列する。摂関家九条流に仕え,二条良実の政治顧問となる。また後嵯峨天皇の側近としても活動し,寛元4(1246)年に九条家が没落すると専ら後嵯峨上皇に仕えるようになった。大蔵卿,左兵衛督,検非違使別当に任じて宝治2(1248)年に権中納言。後嵯峨上皇の第一の側近として大納言を望んだが,家格のゆえに果たさなかった。日記があり,『葉黄記』という。

(本郷和人)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「葉室定嗣」の解説

葉室定嗣 はむろ-さだつぐ

1208-1272 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
承元(じょうげん)2年生まれ。藤原光親(みつちか)の次男。母は藤原定経の娘。仁治(にんじ)3年参議,宝治(ほうじ)2年(1248)正三位,権(ごんの)中納言。後嵯峨(ごさが)上皇の院執権,評定衆,伝奏として活躍した。日記「葉黄記(ようこうき)」は史料として重要。文永9年6月26日死去。65歳。初名は光嗣。法号は定然(じょうねん)。

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