青森県北西部の市。2005年3月旧五所川原市と金木(かなぎ)町,市浦(しうら)村が合体して成立した。旧市浦村は中泊町を挟んで飛び地となった。人口5万8421(2010)。
五所川原市南部の北に位置する旧町。旧北津軽郡所属。人口1万1104(2000)。津軽半島中央部に位置し,東半は津軽山地,西半は津軽平野からなる。山林が7割をこえ,その大部分はかつてはヒバを中心とした国有林であった。平野部は元禄年間(1688-1704)に開田された金木新田で,中心地の金木はヒバと米の集散地として発展した。1930年に五所川原から中里まで津軽鉄道が通じ,五所川原の商圏の影響が強まって金木の地位は低下した。米,リンゴを中心とする農業と,製材を主とする木工業が基幹産業で,70年には町営牧場が開かれ,畜産振興にも力を入れている。太宰治は金木の大地主津島家の生れで,生家は〈斜陽館〉という旅館になっている。川倉地蔵堂の賽の河原は,下北の恐山霊場とともにいたこの口寄せで知られる。
執筆者:佐藤 裕治
五所川原市南部の南に位置する旧市。津軽平野の中部にある。1954年五所川原町が中川,三好,飯詰,長橋,松島,栄の6村と合体,市制。人口4万9193(2000)。中心市街の五所川原は1676年(延宝4)津軽藩の新田開発により成立した。この地域は岩木川下流部の平たんな低湿地で,雨が降れば洪水となり,照れば水不足に悩まされるところで,灌漑用溜池が多く分布している。1930年私鉄の津軽鉄道が北方の中里町(現,中泊町)まで開通し,36年国鉄(現JR)五能線が全通して,その結節点となり,農村を後背地とする商業都市となった。ここを起点としてバス路線が放射状に走る。津軽平野はこの付近から北部にかけて水田単作地帯となり,リンゴ園は平野南部にくらべて少なく,東の津軽山地山麓に局部的な栽培が見られるのみである。
執筆者:横山 弘
五所川原市北部の旧村。旧北津軽郡所属。人口2911(2000)。津軽半島北西部にあり,西は日本海に臨む。南部は十三湖(じゆうさんこ)が占め,北部は津軽山地北部にあたる山地からなる。十三の湖口にあたる十三は,中世には十三湊(とさみなと)と呼ばれ,豪族安東氏の拠点として栄えた。1340年(興国1・暦応3)大津波をうけ一時衰退するが,近世には鰺ヶ沢,深浦,青森とともに津軽藩の四浦に数えられ,岩木川舟運によって運ばれた津軽平野の米や山地からのヒバの積出港であった。十三湖は1948年から国営干拓事業が行われ,岩木川河口に堤がつくられた。農業は米作中心だが零細で,偏東風(やませ)の影響による冷害も多いため,出稼者が多い。近年は黒毛和牛の飼育が盛ん。
執筆者:佐藤 裕治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
青森県西部、津軽平野中央部にある都市。1954年(昭和29)五所川原町と中川、三好(みよし)、飯詰(いいづめ)、長橋、松島、栄(さかえ)の6村が合併して市制施行。1956年七和(ななわ)村を編入。2005年(平成17)、北津軽郡金木町(かなぎまち)、市浦村(しうらむら)を合併。旧市浦村域は、北津軽郡中泊(なかどまり)町の南部をはさんで北の飛び地となっている。1676年(延宝4)弘前(ひろさき)(津軽)藩の新田開発により開かれたが、岩木川右岸の平坦(へいたん)な低湿地で、雨が降れば洪水となり、照れば水不足に悩まされる所で、灌漑(かんがい)用溜池(ためいけ)が多く分布している。1930年(昭和5)津軽鉄道が五所川原―金木間に開通、1936年には国鉄(現、JR)五能線(ごのうせん)が全通して、その結節点となり、以後周辺農村を後背地とする商業都市となった。国道101号と339号とが交差し、周辺へのバスターミナルの役割をも果たしている。津軽平野は五所川原市から北部は水田単作地帯で、リンゴ園は平野南部に比べて少なく、東部の津軽山地山麓(さんろく)に局部的に栽培されている。津軽山地の魔ノ岳、馬ノ神山、梵珠(ぼんじゅ)山などをつなぐハイキングコースがあり、県民の森の指定を受けている。面積404.20平方キロメートル、人口5万1415(2020)。
[横山 弘]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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