小泊村(読み)こどまりむら

日本歴史地名大系 「小泊村」の解説

小泊村
こどまりむら

[現在地名]小泊村 小泊・袰内ほろない

津軽半島北西部を占め、北東部は中山なかやま山地、西南部はその山麓大釈迦だいしやか丘陵上に立地する。本村は南から日本海に突出した半島状の小泊岬北岸と七ッ石ななっいしにかけての湾状海岸に、支村下前したまえは小泊岬南岸に、支村折戸おりとはその東方海岸にあり、ともに山が集落に迫る。東は三厩みんまや村支村中浜なかはま(現東津軽郡三厩村)、北は浜名はまな(現東津軽郡今別町)支村宇鉄うてつ(現三厩村)に、南は脇元わきもと(現市浦村)に境する。

村域西方柴鼻しばはなにある柴崎しばざき城跡は、安東康季が永享四年(一四三二)または嘉吉三年(一四四三)南部義政に攻められ、最後に拠った城といわれ、古くからの開村と推定されるが年代不詳である。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡に高五一・九八石、うち田方四八・七八石とある。貞享四年(一六八七)検地帳に田方二五町三反四畝一〇歩、畑方四町四反二畝一一歩、田畑屋敷合せて二九町七反六畝二一歩、村高一八一・九三四石とあり、ほかに漆林五反歩があり漆木三三四本があった。小泊村は寛文四年(一六六四)区画再編により下の切遣、貞享四年藤代組支配、さらに享保一二年(一七二七)に「藤代組唐皮磯松脇元小泊四ケ村金木組成る」と変遷し、元禄三年(一六九〇)の村位は下であった(平山日記)。村勢について享和二年(一八〇二)の「測量日記」に家数一九七とあり、工藤家記(中里町誌)天明四年(一七八四)一二月二六日の条に「去当年御郡中死亡之表拾四万人余と云(中略)小泊村人別千三百四拾人余之内去秋九月迄餓死八百拾弐人之由」、また国日記元文六年(一七四一)一月二三日条の金木組代官からの同月一九日の小泊村大火の報告に七五軒焼失の内訳として「八軒御蔵百性壱軒給地百性六十三軒高無壱軒借屋壱軒禅寺壱軒浄土寺」とある。


小泊村
こどまりむら

[現在地名]羽茂町小泊

小佐渡南西部の海岸段丘上の集落。西部に小泊の入江があり、集落は台地上にある。山地は東に深く下川茂しもかわも(現赤泊村)に接し、北は椿尾つばきお下黒山しもくろやま(現真野町)、南は亀脇かめのわき村山むらやま上山田かみやまだ大崎おおさきの各村と接する。かつて高崎たかさき(現真野町)より曲折する小木おぎ街道(現国道三五〇号)の七曲りの難所があり、小泊の入江はこの難所を避けて物資の移出入港とし利用された。段丘の広範な地域にわたって須恵器や国分寺瓦の破片が出土する。旧海食崖の傾斜面を利用し、多数の須恵器窯跡がある。


小泊村
こどまりむら

[現在地名]珠洲市三崎町小泊みさきまちこどまり

雲津もづ村・竹沢たけざわ村の東、長手ながて崎の南西岸に立地する。「三州志」に江原山えばらやま(現茨山)大塚おおつか田子たこの三垣内をあげる。中世正院しよういん郷の内で、文和元年(一三五二)三月一一日の高座宮本経田田数注文(須須神社文書)に「八小泊惣太郎名」とある。南北朝期には長近江入道母の所領であったが、応安五年(一三七二)の能登内乱で長近江入道が没落したと推定され、正院郷内小泊は伏見ふしみ毛寿もず(雲津)蟹浦かにうらとともに闕所地となった。


小泊村
こどまりむら

[現在地名]積丹郡積丹町大字美国町びくにちよう 小泊

明治初年(同二年八月―同六年の間)から同三五年(一九〇二)まで存続した村。船澗ふなま村の南東にある。近世にはビクニ場所の中心で、美国川の河口には運上家が置かれた。「蝦夷日誌」(二編)にみえるホントマリは当地のうちで、「漁小屋有。図合懸り澗ニよろし」とある。「廻浦日記」に「二八小屋多し」とあり、ビクニ場所絵図(増田家蔵)に出稼小家六軒と記される。明治初年ポントマリ、ベトクニ、ヲタニホロなどを合せて小泊村と称したという(状況報文)


小泊村
こどまりむら

面積:六四・七九平方キロ

津軽半島北西端を占め、西は日本海に面し、南方には小泊岬(権現崎)の小半島が突出し、東部は中山なかやま山地によって占められる。北東の津軽半島の突端竜飛たつぴ崎は東津軽郡三厩みんまや村に属し、西は日本海、東は三厩村、南は市浦しうら村に隣接する。

土地の大半が山岳で、全面積の九〇パーセントが国有林、わずか二・四パーセントの農耕地のうち、平地は小泊川流域のみで、多くは山の傾斜面にある。産業は日本海を漁場とする水産業が基盤で就業人口の約五五パーセントを占めているが、漁業の不振が、第二次・第三次産業への移動傾向をみせている。


小泊村
こどまりむら

[現在地名]東和町大字小泊

西は和佐わさ村、北・東側は内入うちのにゆう村と接し、南は伊予灘に面する。南海上にささ島を望む。

慶長一五年(一六一〇)の検地帳に「小泊村」とみえる。村域のほとんどは峰続きの山地で、同検地帳によれば田面積三町五反余で石高五二石一斗余、畠面積三町七反余で石高一七石四斗余、塩浜方一六石余であった。「注進案」では総田畠面積一一町一反余、総石高一六四石二斗余となって少々の増加がみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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