日本歴史地名大系 「北畠氏居館跡」の解説 北畠氏居館跡きたばたけしきよかんあと 三重県:一志郡美杉村上多気村北畠氏居館跡[現在地名]美杉村上多気 耕作上多気(かみたげ)の北部台地上にある北畠神社境内一帯は北畠氏歴代の居館跡と伝える。多気城下古図(神宮文庫蔵)には国司代々館と描かれ、現存の庭園もみられる。近世前期成立の「勢陽雑記」には、「北畠代々の古蹟、今上多気・下多気両村の間、上多気領にあり、竪六拾五間、横三拾八間也、(中略)掛かる繁昌の所を彼屋形没落後、畑に鋤かれ、土民の耕地と成り侍しが、其後上多気村度々火災など有之、彼是両村共に衰微せしかば、民間不思議の思ひをなし、彼の屋形の跡のみ耕地を改ため、八幡宮を勧請し」たのが、現北畠神社の前身であり、その傍らに国司寺すなわち真善(しんぜん)院を建立して、八幡宮の別当寺とした。八代北畠具教が永禄の末年頃に、織田信長の伊勢侵攻に備えて大河内(おかわち)城(現松阪市)に移るまでの北畠氏歴代の居館となった地で、天正四年(一五七六)具教が三瀬谷(みせだに)(現多気郡大台町)で殺害されるや、織田軍は多気を襲撃して居館も焼払われたと伝える。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報