上多気村(読み)かみたげむら

日本歴史地名大系 「上多気村」の解説

上多気村
かみたげむら

[現在地名]美杉村上多気

八手俣はてまた川上流域の開けた谷平野にあり、北は下多気村に接する。村内東方高須たかすノ峰(七九八メートル)よりたて川が流下して町屋まちやで八手俣川に合流する。また小津こつの南で丹生俣にゆうのまた村と接し、西は飼坂かいさか峠を越えて奥津おきつ村に通ずる。村内町屋の集落は立川に沿って飼坂峠へ行く初瀬はせ(伊勢)本街道と、北へしもがわ村を経て波瀬はぜ(現一志町)へ通ずる多気街道、南へ川俣かばた(現飯南郡飯高町)への庄司しようじ越の分岐点をなした。村の西方霧山きりやま城跡のある標高六〇〇メートルの山がそびえ奥津村と境界をなす。上多気と下多気の村界一帯はもと北畠家の居館を中心としたいわゆる多気城下の中心部と伝えられ、多気城下古図(神宮文庫蔵)には居館以下、有力家臣屋敷地などが描かれている。村界は近世に入って津藩領(下多気村)と和歌山藩領(上多気村)に分れた時点に定められたもので、すでに城下の面影を失って久しい頃の決定と思われる。

建武新政によって伊勢国司となり、伊勢の南朝勢力の中心となって活動した北畠家は、初め度会わたらい郡の田丸たまる(現玉城町田丸)を拠点として、外宮祠官や愛洲一族ら在地武士を結集したが、興国三年(一三四二)八月、守護仁木義長らの幕府軍に田丸城を攻略され、その後に天険の地多気を根拠地に選んだ。多気は三方山地で囲まれた山間の平野で、村全体がさながら一の大城郭を形成し北方の八手俣川を下って一志の平野へ通じ、また白口しらくちさくら比津ひつ・飼坂・杉・庄司越・櫃坂ひつさかなどの峠を経て伊勢南部各地や大和・吉野への交通路が通じていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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