江戸後期の儒学者。名は正謙(まさかね)、字(あざな)は有終。拙堂は号。鉄研学人とも号す。通称は徳蔵。致仕後、拙翁と称した。寛政(かんせい)9年、伊勢(いせ)国津藩の江戸柳原の藩邸で、斎藤正修の次男として生まれる。昌平黌(しょうへいこう)に入り古賀精里(こがせいり)に学ぶ。1819年(文政2)23歳で津藩儒員試補となる。藩校有造館の創設に伴い、講師を経て、1823年講官に任ぜられ、禄(ろく)150石を給せらる。さらに藩主藤堂高猷(とうどうたかゆき)(1813―1895)の侍読として上士となる。1841年(天保12)45歳のとき郡奉行(こおりぶぎょう)に任ぜられたが、4年後には藩校に戻り、督学の任にあって、学則を改正し、洋学館を創設するなど、藩校の拡充発展に力を尽くした。その名声により、将軍家定は幕府の儒官に登用しようとしたが、辞退。1859年(安政6)致仕し、長子の正格(誠軒、1826―1876)に家督を譲る。慶応元年7月15日、茶磨山荘において69歳で没す。朱子学を主としたが、洋学、兵法、砲術など、実学にも力を入れた。武士道論『士道要論』、経世を論じた『救荒事宜』(1831)、対外政策を論じた『海外異伝』(1850)『海防策』『兵論』のほか、詩文にも秀で、『拙堂文集』(1853ころ?)『拙堂文話』(1830)など多くの著作がある。
[佐藤正英 2016年5月19日]
江戸後期の儒学者。名は正謙。字は有終。拙堂,鉄研と号する。江戸の津藩邸に生まれ,昌平黌で古賀精里に学ぶ。24歳のとき藩校有造館が創設され,学職に抜擢されて津に移り,のち講官,督学となり文武の振興に功があった。朱子学を本としつつ諸説を折衷し,詩文に長じ経世の学にも一家言があり,とくに文章は当代一流と称された。著書は《拙堂文集》《拙堂文話》など数多い。
執筆者:頼 祺一
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