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斎藤拙堂 さいとう

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美術人名辞典の解説

斎藤拙堂

江戸後期の儒者。江戸生。増村作蔵の次男。名は正謙、字は有終、通称は徳蔵、別号に鉄研学人等。昌平黌で古賀精里に学ぶ。津藩藩校設立の際、藩主藤堂高兌により学職に抜擢され、藩校の発展に尽くした。歴史・文章に秀で、『海外異伝』『海防策』等多数の著がある。慶応元年(1865)歿、69才。

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デジタル大辞泉の解説

さいとう‐せつどう〔‐セツダウ〕【斎藤拙堂】

[1797~1865]江戸末期の儒学者。津藩士。名は正謙。古賀精里門下。藩の督学となり、育英に尽力。著「拙堂文集」など。

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百科事典マイペディアの解説

斎藤拙堂【さいとうせつどう】

江戸末期の朱子学者。名は正謙(まさかね)。字は有終。伊勢(いせ)津藩の江戸藩邸生まれる。古賀精里に学び,24歳で創設された津藩の藩校有造(ゆうぞう)館の学職に抜擢(ばってき)される。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

斎藤拙堂 さいとう-せつどう

1797-1865 江戸時代後期の儒者。
寛政9年生まれ。昌平黌(しょうへいこう)で古賀精里(せいり)にまなぶ。文政3年伊勢(いせ)津藩校有造館の学職となり,郡奉行などをへて,弘化(こうか)元年藩校督学にすすむ。種痘館の設置にもつとめた。慶応元年7月15日死去。69歳。江戸出身。名は正謙。字(あざな)は有終。通称は徳蔵。別号に鉄研。著作に「拙堂文話」「海外異伝」「救荒事宜」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

斎藤拙堂

没年:慶応1.7.15(1865.9.4)
生年:寛政9(1797)
江戸後期の儒学者。名は正謙,字は有終,通称は徳蔵。号は拙堂,鉄研道人など。父正修と母斎藤氏の子として江戸柳原の津藩(三重県)藩邸に生まれる。昌平黌に入門,古賀精里に就く。文政3(1820)年藩主藤堂高兌は藩校有造館を創設し,拙堂を抜擢し学職に就けたので津に移る。次いで講官となり,7年藩主高猷の侍読となる。拙堂は行政官としても有能で,天保12(1841)年郡奉行に任じられ業績を挙げ,弘化1(1844)年有造館督学となり,学則を改め人材を挙げ,広く書籍を購入し文庫を増設し,『資治通鑑』294巻を刊行し,また有能な藩士を江戸に送り洋学や西洋兵術を学ばせるなど,時勢の変遷にも敏感に対処し,種痘術の渡来に際しては藩校に種痘館を開き率先藩内に施行した。安政2(1855)年幕府の命で江戸に赴き将軍家定に拝謁,幕府は拙堂を儒官に抜擢しようとしたがそれを辞退した。その学問は朱子学を基本としながら墨守することなく,史伝に精しく,老子・孫子二弁は猪飼敬所が千古の卓見と評した。また経世の関心も強く,海外事情などを調べ『海外異伝』『魯西亜外記』などを著す。だが拙堂の最も得意としたのは文,それも紀行文の類であり,その『月瀬記勝』は,大和の月ケ瀬を梅の名所たらしめ,頼山陽の『耶馬渓図巻記』と並んで紀行文の双璧とされ,拙堂の名を高めた。頼山陽はじめ多数の儒者,文人との交流も有名である。安政6年致仕,墓所は津の四天王寺。<参考文献>中内惇「拙堂先生小伝」(『事実文編』68巻),富士川英郎『江戸後期の詩人たち』

(沼田哲)

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世界大百科事典 第2版の解説

さいとうせつどう【斎藤拙堂】

1797‐1865(寛政9‐慶応1)
江戸後期の儒学者。名は正謙。字は有終。拙堂,鉄研と号する。江戸の津藩邸に生まれ,昌平黌で古賀精里に学ぶ。24歳のとき藩校有造館が創設され,学職に抜擢されて津に移り,のち講官,督学となり文武の振興に功があった。朱子学を本としつつ諸説を折衷し,詩文に長じ経世の学にも一家言があり,とくに文章は当代一流と称された。著書は《拙堂文集》《拙堂文話》など数多い。【頼 祺一】

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大辞林 第三版の解説

さいとうせつどう【斎藤拙堂】

1797~1865) 江戸後期の儒者。津藩士。昌平黌で古賀精里に学び、藩校で教鞭をとる。詩文に秀でた。警世の書「海防策」「海外異伝」を著す。他に「拙堂文話」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

斎藤拙堂
さいとうせつどう

[生]寛政9(1797).江戸
[没]慶応1(1865).7.15.
江戸時代末期の津藩の儒学者。名は正謙,通称は徳蔵。拙堂は字。江戸の藩邸で増村氏の子として生れ,母の実家斎藤氏の養子となり,のち昌平黌で古賀精里に学ぶ。文政4 (1821) 年津藩の藩校創設に際し講官,侍読,督学として活躍,種痘を津藩に広めたことでも有名。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

斎藤拙堂
さいとうせつどう
(1797―1865)

江戸後期の儒学者。名は正謙(まさかね)、字(あざな)は有終。拙堂は号。鉄研学人とも号す。通称は徳蔵。致仕後、拙翁と称した。寛政(かんせい)9年、伊勢(いせ)国津藩の江戸柳原の藩邸で、斎藤正修の次男として生まれる。昌平黌(しょうへいこう)に入り古賀精里(こがせいり)に学ぶ。1819年(文政2)23歳で津藩儒員試補となる。藩校有造館の創設に伴い、講師を経て、1823年講官に任ぜられ、禄(ろく)150石を給せらる。さらに藩主藤堂高猷(とうどうたかゆき)(1813―1895)の侍読として上士となる。1841年(天保12)45歳のとき郡奉行(こおりぶぎょう)に任ぜられたが、4年後には藩校に戻り、督学の任にあって、学則を改正し、洋学館を創設するなど、藩校の拡充発展に力を尽くした。その名声により、将軍家定は幕府の儒官に登用しようとしたが、辞退。1859年(安政6)致仕し、長子の正格(誠軒、1826―1876)に家督を譲る。慶応元年7月15日、茶磨山荘において69歳で没す。朱子学を主としたが、洋学、兵法、砲術など、実学にも力を入れた。武士道論『士道要論』、経世を論じた『救荒事宜』(1831)、対外政策を論じた『海外異伝』(1850)『海防策』『兵論』のほか、詩文にも秀で、『拙堂文集』(1853ころ?)『拙堂文話』(1830)など多くの著作がある。[佐藤正英]

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