十二天村(読み)じゆうにてんむら

日本歴史地名大系 「十二天村」の解説

十二天村
じゆうにてんむら

[現在地名]中条町十二天

胎内たいない川右岸の微高地にあり、東は平木田ひらきだ村、北は旧河道を隔てて山屋やまや村、南東伊徳寺いとくじ村・土作つちづくり村・高野たかの村、西は古館ふるたて村に接する。村名は鎮守の十二天神社(現土生田十二天神社)に由来する。元和五年(一六一九)七月の堀直寄知行宛行目録(新潟大学蔵)に黒川組として「十二天村」がみえ高二一八石五斗余が堀主膳に宛行われている。正保国絵図では九二石余。初め村上藩領に属し、宝永六年(一七〇九)幕府領、正徳二年(一七一二)以降旗本松平領。万治二年(一六五九)検地帳(十二天区有文書)によれば高一三九石二斗余・本田七町四反九畝余・新田四反六畝余・畑屋敷七町七反一畝余で、うち屋敷六反四畝余、屋敷名請人七。


十二天村
じゆうにてんむら

[現在地名]新座市片山かたやま二丁目など

黒目くろめ川右岸にあり、北の低地を同川支流が流れる。北と西をつじ村に囲まれ、南東は中沢なかざわ村、南は石神いしがみ村の飛地。周辺諸村と境が錯雑する。片山村から分郷した村で、村名は野寺のでら村の満行まんぎよう寺が往古この地にあり、それに付属して十二天の社があったことに由来する(風土記稿)下栗原しもくりばら村とも称され(同書)栗原村と同様元和元年(一六一五)以後旗本木村領。天明四年(一七八四)には一三石が久喜藩領(「久喜藩高改帳」鬼久保家文書)幕末の改革組合取調書では出羽長瀞藩領中沢村に含まれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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