野寺村(読み)のでらむら

日本歴史地名大系 「野寺村」の解説

野寺村
のでらむら

[現在地名]高松町野寺

大海おおみ川支流野寺川の上流右岸の丘陵上に位置し、耕地は野寺川に向かって階段状に広がる。南は八野はちの村、北は東間あずま(現押水町)。元和六年(一六二〇)の能州押水之内野寺村御検地御水帳(岡部文書)によれば、田畠屋敷とも七七石三斗六升、新開九石二斗六升。同八年の作人野寺村中宛の能州押水之内野寺出村新開御検地之御事(同文書)では、新開一石一斗とある。野寺村は野寺と深谷ふかたにの垣内があり、野寺出村は深谷にあたるか。正保郷帳では高七七石余、田方三町四反余・畑方一七町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(野寺区有文書)では、草高一一六石、免五ツ三歩、明暦二年(一六五六)の新田高二石、小物成として山役五八匁・苦竹役四匁、鳥役四匁(出来)


野寺村
のでらむら

[現在地名]千代田村東野寺ひがしのでら西野寺にしのでら

恋瀬こいせ川・あまの川の合流点付近にあり、北は府中たいら(現石岡市)、南は新治村。弘安大田文に南郡として「野寺七丁」とあり、文保三年(一三一九)の常陸国総社造営役所地頭等請文目録(総社文書)に「一通 野寺郷一分地頭次郎三郎請文」「一通 野寺郷一分地頭益戸四郎兵衛尉」とみえる。天正末期に佐竹氏領となり、慶長七年(一六〇二)以降江戸時代を通じて志筑本堂氏領。元禄郷帳の村高は七四七石余、のち東西に分村し、慶応三年(一八六七)の東野寺村の村高は五六六石余、西野寺村は二三九石余(「義定書」千代田村史)。文政一一年(一八二八)の戸数・人数は東野寺村四九(農間渡世の居酒屋一)・二七八、西野寺村は一四(居酒屋一)・七九(「三十六ケ村家数人数之覚」豊崎家文書)


野寺村
のでらむら

[現在地名]びわ町野寺

大浜おおはま村の北東、あね川右岸にあり、対岸は川道かわみち村。姉川の河岸段丘を利用した桑畑があり、養蚕が盛んであった。浅井郡検地帳(東浅井郡志)による天正検地高一七四石、慶長七年(一六〇二)の検地高一九五石余。寛永石高帳では高二一三石余で、うち大名堀利長領一九五石余・膳所藩領一八石余。元禄郷帳では大和郡山藩と膳所藩による相給。


野寺村
のでらむら

[現在地名]新座市野寺一―五丁目など

栗原くりばら村の東、黒目くろめ川右岸にある。東はつじ村・下中沢しもなかざわ村の飛地、北は下片山しもかたやま村の飛地、南は辻村の飛地と下保谷しもほうや(現東京都保谷市)。文明一八年(一四八六)武蔵国を訪れた聖護院道興は、「廻国雑記」に「又野寺といへる所爰にも侍り、これも鐘の名所也といふ」と記し、鐘についての「いにしへ国の乱れによりて土のそこにうつミけるとなん、そのまゝほり出さゝりけれは」との伝承を述べて「音にきく野寺をとへハ跡ふりてこたふる鐘もなき夕哉」と詠んでいる。この野寺の鐘は当地の真言宗智山派満行まんぎよう寺にあったと伝え、村名も同寺の通称野寺に由来するという。


野寺村
のでらむら

[現在地名]平田町野寺

幡長はたおさ村の北東、長良川右岸に立地。天正一一年(一五八三)九月一日の吉村氏吉宛織田信雄宛行状(吉村文書)に一四ヵ所三千貫余の一として野寺とある。同一四年七月二三日の織田信雄黒印知行目録(同文書)に「野寺・はたをさ両郷」五八二貫七二二文とみえ、あらためて氏吉に与えられている。慶長郷帳に村名がみえ、高六五四石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳では幕府領で、田四〇六石余・畑三九三石余、無地高一二四石余のうち新開二三〇石余となっている。元禄郷帳でも幕府領で、高九二九石余とある。


野寺村
のでらむら

[現在地名]稲美町野寺

加古新かこしん村の東、草谷くさだに川南岸の高位段丘上に位置する。村名は印南いなみ野と、村内の高薗こうおん(現真言宗大覚寺派)から名付けられたものといわれる。天正一〇年(一五八二)八月二八日、羽柴秀吉は山名尭熙に野寺内七一石余などの知行を認めている(「羽柴秀吉判物」記録御用所本古文書)。慶長国絵図には野寺村とその南に野寺(高薗寺)がみえる。正保郷帳には野寺山とあり、田方五二石余・畑方一三石余。元禄郷帳では「古ハ野寺山」と肩書されて村名がみえ、同高。


野寺村
のでらむら

[現在地名]鳥取市野寺

服部はつとり村の南、千代川西岸にある。もとは下味野しもあじの村の枝郷で、正保国絵図・正保郷帳には記載がないが、元禄国絵図・元禄郷帳作成の際新たに一村として記された(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。元禄郷帳では二〇一石余。正徳元年(一七一一)郷村高辻帳では一九石余で、これが当村分の拝領高に相当するか。本免六ツ。藪役銀三分・山役銀一四匁・川役銀一〇匁を課されていた(藩史)。山田・荒木・津田・佐々木の四氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数一四、古記には二〇軒とある。


野寺村
のでらむら

[現在地名]小矢部市野寺

高木出たかぎで村の北東に位置、東境を坂又さかまた川、南境をみや川が流れる。元和五年(一六一九)の家高新帳に「のてら」とみえ、役家数五、二郎島孫次組に属する。正保郷帳では高三七四石、田方二四町七反余・畑方二反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四二二石・免四ツ四歩(三箇国高物成帳)


野寺村
のでらむら

[現在地名]安城市野寺町

東は寺領じりよう村、南と西は藤井ふじい村に隣する。本証ほんしよう寺のあるところから、野寺の名が生れた。古代志貴しき庄に属する。近世の野寺村は、本証寺領と甘縄藩領。寛永一三年(一六三六)の村高一〇三石三斗七升、うち六九石五斗七升本証寺領、天保郷帳でもほとんど変わらない。台地上の村として、畑のみ、米がとれず、生活の苦しさを「野寺百姓わらわない」といわれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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