栗原村(読み)くりはらむら

日本歴史地名大系 「栗原村」の解説

栗原村
くりはらむら

[現在地名]座間市栗原・立野台たつのだい広野台ひろのだい一―二丁目みどりおか・ひばりがおか二―五丁目

南は上草柳かみそうやぎ(現大和市)かしわ村・上今泉かみいまいずみ(現海老名市)に接し、西は宿しゆく村・入谷いりや村に接し、東北は相模野に連なる。東南境を矢倉沢やぐらさわ往還、南を東西に横浜道が通る。村央の字小池こいけ、南の芹沢せりさわに湧出し南流する目久尻めくじり川があり、江戸時代はさぎ川・さむ川とよばれた。たかノ峰は近世までは立野たちの山とよばれ、読人しらずとして「夫木抄」に載る「相模なるたちのの山のたちまちに君にあはむと思はざりしを」は、ここを歌ったものかともいう。

近世は、幕府直轄領、増山(のち西尾藩)領、幕府直轄領、旗本町野領と替わるが、宝永四年(一七〇七)以後は旗本太田・増田・山田領に分知、三給のまま幕末に至った。元禄一四年(一七〇一)九月の村明細帳(県史六)によると、田二二町五反余、畑一五二町九反余。家数一四三、うち本百姓一二〇・水呑百姓二三。人数四五八、うち男二五八・女二〇〇。


栗原村
くりはらむら

[現在地名]尾道市栗原町・長江ながえ三丁目・東則末ひがしのりすえ町・西則末にしのりすえ町・門田もんでん町・さくら町・潮見しおみ町・日比崎ひびさき町・天満てんま町・三軒家さんげんや町・西土堂にしつちどう町・東土堂ひがしつちどう町・東御所ひがしごしよ町・栗原東くりはらひがし一―二丁目・栗原西くりはらにし一―二丁目

後地うしろじ村の西に位置し、村域南は海に臨み、栗原川・巌通がんつう川が流入する。中央部は両河川流域の平坦地が広がり、周辺部は丘陵地帯。栗原川の土砂が沖合の尾道水道に堆積し、船の運航に支障をきたすこともあった。栗原川・巌通川(現在は両河川を途中で接続して巌通川中・下流を栗原川とし、旧栗原川中・下流は埋立てた)があっても水懸りは不足がちで、溜池が多く築調された。南部を山陽道(西国街道)が横断し、東部を石見路(赤名越)が南北に縦貫。村域に則末古墳群・下組しもぐみ古墳などがある。


栗原村
くりはらむら

[現在地名]志賀町栗原

高城たかしろ村の西の山中にあり、南西は途中とちゆう村・上龍花かみりゆうげ(現大津市)。中世には龍花りゆうげ庄の庄域に含まれていたらしい(輿地志略)。貞治二年(一三六三)一二月二〇日の妙一田地売券(朽木文書)によると、沙弥妙一が同庄内の田地を井上房に売渡しており、売券に判を加えた妙一ら四名の住地は「く里わら」とみえる。天正一〇年(一五八二)八月一八日の徳川家康書状(譜牒余録)によれば、穴山梅雪の娘が栗原村地頭南道善に嫁している。同一一年八月の御蔵入目録(浅野家文書)に栗原村とあり、高六七七石余。寛永石高帳に高八五二石余とあり、旗本石川領二七六石余、同柘植領一七六石余、同柘植領四〇〇石。


栗原村
くりはらむら

[現在地名]落合町栗原

一色いしき村の南東にあり、東は鹿田かつた村・西は備中宮地みやじ(現上房郡北房町)、南は備前国で、南端の三飛みとび(「作陽誌」では舟乢)は備前・備中・美作の三国境に位置する。東流する備中川の流域に耕地が広がり、南・北は山地で緩斜面となっている。同川沿いに落合往来が通り、宿屋が一軒あった(落合町史)。古代真島ましま郡栗原郷(和名抄)の遺称地。弘治三年(一五五七)仮託の美作国献上記(美作古簡集)にみえる栗原郷は「太平記」巻七(船上合戦事)に載る南三郷の一つといわれる。寛永七年(一六三〇)の森忠政宛行状(黄薇古簡集)で当村のうち二五七石余が上坂主馬に与えられている。


栗原村
くりはらむら

[現在地名]足立区栗原一―四丁目・平野ひらの一―三丁目・一ッ家ひとつや一―四丁目・西新井栄町にしあらいさかえちよう二―三丁目・中央本町ちゆうおうほんちよう一丁目・同三―五丁目など

島根しまね村の西に本村地域が位置する。日光道中以東に飛地が多く、栗原新田という呼称もみられる(日光道中分間延絵図)。北は六月ろくがつ村・伊興いこう村、南は本木もとき村、西は西新井にしあらい村。村組(ズシ)として満願寺まんがんじ厨子・石塚いしづか厨子・新田厨子がある。応永四年(一三九七)七月二〇日の足利氏満寄進状および上杉朝宗施行状(いずれも黄梅院文書)に足立郡淵江ふちえ郷石塚村がみえ、鎌倉公方足利氏満が同地などを小坪こつぼ(現神奈川県逗子市)の半分の替えとして鎌倉円覚寺黄梅おうばい院に寄進している。


栗原村
くりはらむら

[現在地名]桜村栗原・天王台てんのうだい一―三丁目

桜川右岸に位置し、南は上野うえの村。平坦な水田地帯に集落がある。古代は「和名抄」記載の栗原郷の本郷の地で、天平宝字七年(七六三)栗原郷から貢献した調布(正倉院宝物)

<資料は省略されています>

とある。中世は田中たなか庄に属したといわれる。江戸時代は天領・旗本領で、元禄郷帳の村高一千五六三石余の大村。幕末は天領一三二石余のほか旗本堀氏が一千九〇五石余を知行した(各村旧高簿)。「新編常陸国誌」によれば、上組かみぐみ・下組・新田しんでんの三坪に分れていた。また栗原村の枝郷に栗原新田村があり、元禄郷帳の村高は三三四石余。正保―元禄(一六四四―一七〇四)に分村という(新編常陸国誌)

鹿島社かしましやに旧村社鹿島神社がある。


栗原村
くりはらむら

[現在地名]栗駒町尾松おまつ

菱沼ひしぬま村の東、二迫にのはさま川の支流くま川沿いに立地。地元では「くりばら」と発音する。南は二迫のとみ(現築館町)、北は三迫の小堤さんのはさまのおづつみ(現金成町)。二迫に属し、一二迫下郷大肝入の管轄。「栗原」の名は古代・中世を通じて数多くみられるが、「和名抄」栗原郡内の栗原郷を当地周辺とする説がある。元弘四年(一三三四)二月晦日の陸奥国宣(留守文書)に「二迫栗原郷内外栗原并片子沢内工藤右近入道跡」とあり、陸奥守北畠顕家が同地を論功行賞として宮城郡岩切いわきり(現仙台市)などを拠点とした留守家任に与えている。


栗原村
くりはらむら

[現在地名]垂井町栗原

表佐おさ村の南に位置し、東は室原むろはら(現養老郡養老町)と接する。「和名抄」記載の不破郡栗原郷の遺称地。「続日本紀」天応元年(七八一)七月一六日条に「不破郡栗原地」とある。宝治元年(一二四七)九月二二日の紀年のある八社神社鐘銘にみえる不破郡清水せいすい寺は当地の臨済宗妙心寺派寺院であり、村の西方栗原山にあったという九十九坊の一という。一説には一〇〇坊を超え、その一つ久保寺双くぼでらそう寺は建武二年(一三三五)五月足利勢の兵火により焼失したと伝える。


栗原村
くりばらむら

[現在地名]新座市栗原一―六丁目など

石神いしがみ村の南にあり、黒目くろめ川右岸の沖積地とその南の武蔵野台地朝霞面からなる。東は野寺のでら村と下片山しもかたやま村・つじ村の飛地、南は下保谷しもほうや村・上保谷村(現東京都保谷市)、西は多摩郡落合おちあい(現東京都東久留米市)。延宝六年(一六七八)の御鷹場絵図(徳川林政史研究所蔵)に栗原村とある。元禄郷帳では堀之内ほりのうち村枝郷として村名がみえ、堀之内村から分郷した。


栗原村
くりばらむら

[現在地名]今市市栗原

南を東流する川が板穴いたな川に合流し、さらに鬼怒川に入る地点西方にある。河内かわち郡に属し、西は佐下部さげぶ村、東の鬼怒川対岸は塩谷郡高徳たかとく(現藤原町)。北に平田ひらた嶽の四〇〇―五〇〇メートルの山塊南端が迫り、集落は砥川北岸西方に集中する。慶安郷帳に村名がみえ日光領。同領への編入は寛永二一年(一六四四)と考えられる。大桑おおくわ八ヵ郷の一。寛文六年(一六六六)の検地帳(星進司文書)によれば畑・屋敷のみで計一九町一反余、うち一〇町一反余が下畑、屋敷は六反余。


栗原村
くりばらむら

[現在地名]美里村三郷みさと

足坂あしさか村の北にあたり、村域の大半は山地で、南部の長野ながの川両岸にわずかな平坦地がある。「三国地志」は「神鳳鈔」所載の「栗原為元一丁五反」を当村に比定するが、「五鈴遺響」は安濃あのう(現安濃町)内の栗原に比定している。近世初期はまだ村切されていず、文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に記される「六百三拾三石七斗五升 新開・柳谷」の中に含まれると考えられる。慶安郷帳(明大刑博蔵)に「栗原村」と現れる。江戸時代を通じて津藩領。寛延(一七四八―五一)頃の戸数四八、ほかに郷士八、人数二一四、馬三、牛四。


栗原村
くりはらむら

[現在地名]久喜市栗原

青毛あおげ村、下川崎しもかわさき(現幸手市)の南にあり、東は葛西かさい用水を境に上高野かみたかの(現同上)騎西きさい領に所属。元禄八年(一六九五)上野前橋藩酒井氏の検地があった(風土記稿)。田園簿によれば田高三二石余・畑高九七石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。延享三年(一七四六)三卿の一家である一橋領となり、幕末に至る(「風土記稿」・改革組合取調書など)。東村境を流れる葛西用水琵琶びわ溜井がある。長さ四七五間・幅四七間、三分の二は当村、三分の一は上高野村の所有であった。万治三年(一六六〇)に関東郡代伊奈忠克によって幸手さつて領用水が利根川から取水、あいの川筋に合流されたが、この時に溜井が造成され、享保四年(一七一九)伊奈忠逵・石川伝兵衛らにより掘広げられている。


栗原村
くりはらむら

[現在地名]伊勢原市さんみや

高取たかとり山の西丘陵地にあり、中央を栗原川が流れる。東は三ノ宮村、南は坪内つぼのうち村、西は善波ぜんば村、北は上子安かみこやす村に接する。寛永一〇年(一六三三)に三ノ宮村から分村したとされ(風土記稿)、両村の境は錯雑する。元禄郷帳に「三之宮村枝郷栗原村」とみえる。享保一三年(一七二八)下野烏山藩領と旗本酒井領の二給。弘化三年(一八四六)五月の油手絞願(石井文書)によれば、名主専次郎に対し伊勢原いせばら村の百姓が油手絞りの仲間が菜種買占めをしないよう願出ている。


栗原村
くりはらむら

[現在地名]新井市栗原

国賀こくか村の西隣、矢代やしろ川右岸の河岸段丘上に立地。北国街道に沿い、矢代川対岸は十日市とおかいち村。村域には乱れてはいるが条里制の遺構が認められ、土師器・須恵器が出土している。地字に国政くにまさの地名が残る。字観音堂かんのんどうの北側水田中から布目瓦の破片が出土、字塚田つかだからもおびただしい奈良時代前期の布目瓦片と蓮華文軒丸瓦の一部や塔跡と推定される基壇の一部が発掘され、頸城くびき郡衙跡の可能性が強い。大型円面硯も出土し、「郡」「柴原偕伎日」の墨書土器も検出された。


栗原村
くりはらむら

[現在地名]明日香村大字栗原

平田ひらた村の南方に立地する。「古事記」雄略天皇段に「此の時呉人参渡り来つ。其の呉人を呉原に安置きたまひき。故、其地を号けて呉原と謂ふ」とみえ、「日本書紀」雄略天皇一四年の条にも呉国へ遣わした身狭村主青と檜隈民使博徳が呉国の献上した手末の才伎・漢織・呉織および衣縫の兄媛・弟媛らを連れて帰国、これらの呉人を檜隈野ひのくまのに置いたので呉原くれはらの地名が起こったとある。


栗原村
くりはらむら

[現在地名]静岡市栗原

有度山うどさん丘陵北西麓に位置し、西は古庄ふるしよう村。東海道が通る。中世は栗原郷と称された。寛永九年(一六三二)幕府領となる。元禄郷帳では高二一八石余。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領。「駿河記」によると旗本の水野領一五二石余・岡野領六六石余の相給。旧高旧領取調帳でも水野領・岡野領の高は同じで、ほかに福田寺除地二石余がある。


栗原村
くりはらむら

[現在地名]洞戸村栗原

湾曲して南流する板取いたどり川西岸に位置し、南は通元寺つうげんじ村。東岸のソコヅ谷(底津谷)の奥に出郷がある。正保四年(一六四七)の洞戸村免定(河合文書)に栗原分とみえる。元禄郷帳に洞戸栗原村と記され、高五二石余。「濃州徇行記」によれば高一〇三石余、田四反余・畑八町一反余、人数一四二、板取川に井堰がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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