日本歴史地名大系 「十市城跡」の解説 十市城跡とおちじようあと 奈良県:橿原市多・耳成地区十市村十市城跡[現在地名]橿原市十市町小字城ノ内十市集落北部にあり、十市氏の居城。主郭部分の微高地を中心に地割を残し、シロ・唐堀(からぼり)・古市場(ふるいちば)・大門(だいもん)・的場(まとば)・下殿口(しもどのぐち)・中殿内(なかどうち)などの小字が遺存。十市氏は興福寺領十市庄荘官で、南北朝期に興福寺大乗院方の国民として現れる。古代の十市県主の系流をくむ旧族ともいわれるが、出自は不詳。貞和三年(一三四七)の興福寺造営段米并田数帳(春日神社文書)に、十市新次郎入道が十市小垣内(おがいと)・常葉(ときわ)庄を抑留したことを記す。大和永享の乱以来、筒井党に加わって成長し、天文年間(一五三二―五五)遠忠の時最盛期を現出、大規模な竜王山(りゆうおうざん)城(現天理市)を築いた。 十市城跡とおちじようあと 高知県:南国市十市村十市城跡[現在地名]南国市十市十市の南西部、字札場(ふだば)の北にある小高い山の上に築かれた山城。栗山(くりやま)城ともいう。十市細川氏の居城。「土佐遺語」に「十市備後守本姓細川、為管領目代居長岡郡十市村蛸城、領知四千石許、不知其後」とある。十市細川氏は管領細川頼之の後裔で、明応初年頃重隆の時十市に来住、以後実明・家俊・国隆・宗桃(定輔)と続いた。国隆のとき長宗我部氏に服属し、宗桃の天正一〇―一三年(一五八二―八五)頃までに幡多(はた)郡吉奈(よしな)城(現宿毛市)の城主となった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報