十市村
とおちむら
[現在地名]南国市十市
浜蚊居田村の西に続く大村。南は土佐湾に臨み、東西に砂丘が続き、北部には低山地が広がる。南部砂丘近くを浜街道が通る。「土佐州郡志」は「東限浜蚊居田村、西限池村・仁井田村、南限海浜、北限下田村之山、縦三十町許横二十町許」「其土淡黒、其民耕桑相務、或以網魚獲禽為業」と記す。
「和名抄」所載の登利郷を当村および池村・仁井田村(現高知市)の地に比定する説もある。標高八二・四メートルの栗山の南斜面から弥生時代の石斧が出土し、字遅倉からは銅矛が発見されている。字阿戸には式内社に比定される石土神社が鎮座している。明応初年頃源重隆(十市細川氏)が当地に城を築き、天文一八年(一五四九)頃四代国隆の時、長宗我部国親に服属した。
十市村
とおいちむら
[現在地名]橿原市十市町
寺川北岸の平坦集落。遠市・藤市とも書く。南は葛本村。古代・中世における十市郡の政治・経済・文化の中心地。式内十市御県坐神社を中心にして古代豪族十市県主が活躍したと考えられる。中世には十市郷・十市庄の地で、土豪十市氏の居城があった。「十市」は古代郡名ではトホチ、トヲチと訓じられた(延喜式、和名抄)。
近世初期は旗本村越光領九九八・五四石と旗本佐久間政実領四九五・六三石の相給村。村越氏領は明治維新まで続いた。佐久間氏領は実勝の代に退転があり幕府領となり、そのうち四六三・八一石は天和二年(一六八二)近江水口藩(加藤明友。のち下野壬生藩)領となるが、正徳二年(一七一二)再び幕府領となり、明治維新に至る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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