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式子内親王 しきしないしんのう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

式子内親王
しきしないしんのう

[生]仁平3(1153)頃.京都
[没]正治3(1201).1.25. 京都
平安時代後期~鎌倉時代初期の女流歌人。「しょくしないしんのう」とも読み,大炊御門 (おおいのみかど) 斎院,萱 (かやの) 斎院などとも呼ばれる。父は後白河天皇,母は大納言藤原季成の娘成子。

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デジタル大辞泉の解説

しきし‐ないしんのう〔‐ナイシンワウ〕【式子内親王】

[?~1201]平安末期・鎌倉初期の女流歌人。後白河天皇の第3皇女。名は「しょくし」とも。賀茂の斎院になり、のち出家。和歌を藤原俊成に学んだ。新古今集に49首入集。家集「式子内親王集」。

しょくし‐ないしんのう〔‐ナイシンワウ〕【式子内親王】

しきしないしんのう(式子内親王)

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百科事典マイペディアの解説

式子内親王【しきしないしんのう】

平安末・鎌倉初期の歌人。〈しょくしないしんのう〉とも読む。後白河天皇の皇女で以仁王守覚法親王と同じ母をもつ。1159年賀茂斎院となり,のち出家。藤原俊成に歌を学んだらしく,俊成の《古来風体抄》も内親王に献じたものとされる。
→関連項目新古今和歌集

式子内親王【しょくしないしんのう】

式子(しきし)内親王

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

式子内親王 しょくしないしんのう

しきしないしんのう

式子内親王 しきしないしんのう

?-1201 平安後期-鎌倉時代,後白河天皇の第3皇女。
母は藤原成子(せいし)。平治(へいじ)元年(1159)賀茂斎院となるが,嘉応(かおう)元年病のためしりぞく。文治(ぶんじ)元年准三宮(じゅさんぐう)。のち出家,法名は承如法。藤原俊成(としなり)に和歌をまなび,新古今時代の代表的な歌人として知られる。家集に「式子内親王集」。正治(しょうじ)3年1月25日死去。名は「しょくし」ともよむ。通称は萱(かやの)斎院,大炊御門斎院。
【格言など】玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする(「小倉百人一首」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

式子内親王

没年:建仁1.1.25(1201.3.1)
生年:生年不詳
後白河天皇の第3皇女。母は藤原季成の娘成子(高倉三位)。大炊御門斎院,萱斎院とも称する。法名は承如法。同母の兄に守覚法親王,以仁王,姉に殷富門院がいる。平治1(1159)年賀茂斎院の卜定を受け,以後11年間神に仕えて過ごした。当時の生活については,『千載集』入集歌などによってその一部を知ることができる。嘉応1(1169)年7月病気を理由に退下。その後しばらく三条高倉殿(母の住居)に住むが,そこに藤原定家が何度か訪れたことが知られている。文治1(1185)年准三宮宣下を受ける。建久3(1192)年後白河法皇が崩じたのち,まもなく出家したか。戒師は親交のあった法然が勤めた。藤原俊成を師として和歌を学ぶ。俊成の『古来風体抄』は式子内親王の求めに応じて,建久8(1197)年執筆,献上されたものである。しかし,歌合を主催したり,歌壇の一員となるような華やかな活動はしなかった。晩年は病気がちで,孤独な生活であったと思われる。家集に『式子内親王集』があり,『正治二年院初度百首』と2種の百首歌のほか,勅撰歌60首余りを収める。内に秘めた悲哀の情や孤独感を,抑制しつつも静かににじませる作風。同時代歌人の影響を受け,前衛的な表現を試みる一方で,他とは一線を画する独自の抒情性を獲得した。代表歌に「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」がある。<参考文献>竹西寛子『式子内親王・永福門院

(谷知子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

しきしないしんのう【式子内親王】

1151ころ‐1201(仁平1ころ‐建仁1)
〈しょくしないしんのう〉ともいう。平安末期,鎌倉初期の女流歌人。後白河院の第3皇女で以仁王(もちひとおう),守覚法親王らの同腹妹。1159年(平治1)賀茂斎院となり,69年(嘉応1)病によって退下するまで奉仕した。萱斎院(かやのさいいん),大炊御門(おおいのみかど)斎院などとも呼ばれる。その後の動静はしばらく不明だが,《千載集》には9首入り,俊成の《古来風体抄》も内親王に献じた書とされる。94年(建久5)ごろには出家し法名承如法と称したが,一説に,97年の橘兼仲陰謀事件に関係しての出家かともいわれる。

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大辞林 第三版の解説

しきしないしんのう【式子内親王】

しょくしないしんのう【式子内親王】

1153頃~1201) 鎌倉期の女流歌人。後白河天皇の第三皇女。1159年から69年まで賀茂斎院をつとめ、晩年に出家する。歌は俊成に師事し、「古来風体抄」を献ぜられる。千載集以下の勅撰集に一五五首入集。家集「式子内親王集」

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世界大百科事典内の式子内親王の言及

【定家】より

金春(こんぱる)禅竹作か。シテは式子(しきし)内親王の霊。旅の僧(ワキ)が都の千本(せんぼん)の辺で時雨にあい,雨宿りをしていると,そこへ若い女(前ジテ)が現れて,ここは藤原定家(ふじわらのさだいえ)が建てた時雨の亭(しぐれのちん)だと教え,昔を懐かしむかにみえる。…

【式子内親王】より

…《新古今集》には,女流歌人中最多の49首入ったが,《新勅撰集》以下の勅撰集にも97首入集。家集に《式子内親王集》がある。謡曲《定家葛》などには,藤原定家との恋愛関係が説話化されているが,事実ではない。…

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