式子内親王(読み)シキシナイシンノウ

デジタル大辞泉 「式子内親王」の意味・読み・例文・類語

しきし‐ないしんのう〔‐ナイシンワウ〕【式子内親王】

[?~1201]平安末期・鎌倉初期の女流歌人後白河天皇の第3皇女。名は「しょくし」とも。賀茂斎院になり、のち出家。和歌藤原俊成に学んだ。新古今集に49首入集。家集式子内親王集」。

しょくし‐ないしんのう〔‐ナイシンワウ〕【式子内親王】

しきしないしんのう(式子内親王)

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精選版 日本国語大辞典 「式子内親王」の意味・読み・例文・類語

しょくし‐ないしんのう‥ナイシンワウ【式子内親王】

  1. 鎌倉初期の女流歌人。後白河天皇の第三皇女。平治元年(一一五九賀茂斎院(かものさいいん)になるが、後に病で退き、晩年は出家した。「新古今和歌集」の女性歌人の代表。「千載和歌集」以下の勅撰集に多くの歌が収められ、家集に「式子内親王集」がある。また、藤原俊成から「古来風体抄」を献上された。しきしないしんのう。久安五~建仁元年(一一四九‐一二〇一)。

しきし‐ないしんのう‥ナイシンワウ【式子内親王】

  1. しょくしないしんのう(式子内親王)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「式子内親王」の意味・わかりやすい解説

式子内親王(しょくしないしんのう)
しょくしないしんのう
(?―1201)

鎌倉前期の歌人。式子は「しきし」ともいう。後白河院(ごしらかわいん)第3皇女。母は権大納言(ごんだいなごん)藤原季成(すえなり)の女(むすめ)、従三位(じゅさんみ)成子(せいし)(高倉三位(たかくらのさんみ))。亮子(りょうし)内親王(殷富門院(いんぷもんいん))、好子(こうし)内親王、守覚法親王以仁王(もちひとおう)、休子内親王は、式子と同母の兄弟姉妹である。1159年(平治1)7、8歳で賀茂斎院(さいいん)に卜定(ぼくじょう)され、69年(嘉応1)病により退下するまで、ほぼ10年の間奉仕する。退下後、萱(かやの)御所に住んだので萱斎院(かやのさいいん)とよばれ、後白河院崩御後は大炊御門(おおいのみかど)殿へ移り、大炊御門斎院とよばれ、また小斎院(しょうさいいん)の称もある。肉親の縁に薄く、母高倉三位の死、後見人の伯父の死、同母兄以仁王の反乱と敗死と、相次ぐ不幸にみまわれた。この前後に出家して法名を承如法(しょうにょほう)という。晩年、橘兼仲(たちばなのかねなか)の陰謀事件に連座し洛外(らくがい)へ追放されそうになったり、生涯は暗く悲惨であった。このような実人生のなかで、藤原俊成(しゅんぜい)の指導により和歌を学ぶ。『古来風体抄(こらいふうていしょう)』は初め内親王に献じられたと伝える。内親王の病悩のようすが藤原定家(ていか)の『明月記』にみえ、「正治(しょうじ)二年後鳥羽(ごとば)院初度百首」(1200)を詠進した翌年の春正治3年1月25日、薄幸の生涯を終える。歌は『千載(せんざい)集』に初出。新古今時代の代表的な女流歌人で、家集に『式子内親王集』がある。死後も内親王の墓に定家葛(かずら)がまつわりついたという定家と式子内親王の激しい恋の伝説が伝えられ、能『定家』がある。

[糸賀きみ江]

 山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水

『久松潜一他校注『日本古典文学大系80 平安鎌倉私家集』(1964・岩波書店)』『竹西寛子著『日本詩人選14 式子内親王・永福門院』(1972・筑摩書房)』『馬場あき子著『式子内親王』(講談社文庫)』



式子内親王(しきしないしんのう)
しきしないしんのう

式子内親王

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改訂新版 世界大百科事典 「式子内親王」の意味・わかりやすい解説

式子内親王 (しきしないしんのう)
生没年:1151ころ-1201(仁平1ころ-建仁1)

〈しょくしないしんのう〉ともいう。平安末期,鎌倉初期の女流歌人。後白河院の第3皇女で以仁王(もちひとおう),守覚法親王らの同腹妹。1159年(平治1)賀茂斎院となり,69年(嘉応1)病によって退下するまで奉仕した。萱斎院(かやのさいいん),大炊御門(おおいのみかど)斎院などとも呼ばれる。その後の動静はしばらく不明だが,《千載集》には9首入り,俊成の《古来風体抄》も内親王に献じた書とされる。94年(建久5)ごろには出家し法名承如法と称したが,一説に,97年の橘兼仲陰謀事件に関係しての出家かともいわれる。以仁王の憤死や後白河院の他界,さらに武家政権の台頭など,激動期を生きた未婚の皇女の憂悶を歌によっていやそうとしたと思われ,最晩年の〈正治二年院初度百首〉の〈山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水〉などに自然・人事の融合的歌境がうかがえる。歌風は,〈生きてよも明日まで人はつらからじこの夕暮をとはばとへかし〉と気品高く哀切の情を細やかに歌った点に特色がある。そしてそれを《後鳥羽御口伝》は〈もみもみとあるやうによまれき〉と評している。《新古今集》には,女流歌人中最多の49首入ったが,《新勅撰集》以下の勅撰集にも97首入集。家集に《式子内親王集》がある。謡曲《定家葛》などには,藤原定家との恋愛関係が説話化されているが,事実ではない。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「式子内親王」の解説

式子内親王

没年:建仁1.1.25(1201.3.1)
生年:生年不詳
後白河天皇の第3皇女。母は藤原季成の娘成子(高倉三位)。大炊御門斎院,萱斎院とも称する。法名は承如法。同母の兄に守覚法親王,以仁王,姉に殷富門院がいる。平治1(1159)年賀茂斎院の卜定を受け,以後11年間神に仕えて過ごした。当時の生活については,『千載集』入集歌などによってその一部を知ることができる。嘉応1(1169)年7月病気を理由に退下。その後しばらく三条高倉殿(母の住居)に住むが,そこに藤原定家が何度か訪れたことが知られている。文治1(1185)年准三宮宣下を受ける。建久3(1192)年後白河法皇が崩じたのち,まもなく出家したか。戒師は親交のあった法然が勤めた。藤原俊成を師として和歌を学ぶ。俊成の『古来風体抄』は式子内親王の求めに応じて,建久8(1197)年執筆,献上されたものである。しかし,歌合を主催したり,歌壇の一員となるような華やかな活動はしなかった。晩年は病気がちで,孤独な生活であったと思われる。家集に『式子内親王集』があり,『正治二年院初度百首』と2種の百首歌のほか,勅撰歌60首余りを収める。内に秘めた悲哀の情や孤独感を,抑制しつつも静かににじませる作風。同時代歌人の影響を受け,前衛的な表現を試みる一方で,他とは一線を画する独自の抒情性を獲得した。代表歌に「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」がある。<参考文献>竹西寛子『式子内親王・永福門院』

(谷知子)

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百科事典マイペディア 「式子内親王」の意味・わかりやすい解説

式子内親王【しきしないしんのう】

平安末・鎌倉初期の歌人。〈しょくしないしんのう〉とも読む。後白河天皇の皇女で以仁王,守覚法親王と同じ母をもつ。1159年賀茂斎院となり,のち出家。藤原俊成に歌を学んだらしく,俊成の《古来風体抄》も内親王に献じたものとされる。悲哀・孤独感に満ちた抒情的な歌をよんだ。《千載和歌集》以下の勅撰集に入集。多作家ではないが,新古今時代の代表的歌人とされる。家集に《式子内親王集》がある。
→関連項目新古今和歌集

式子内親王【しょくしないしんのう】

式子(しきし)内親王

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「式子内親王」の意味・わかりやすい解説

式子内親王
しきしないしんのう

[生]仁平3(1153)頃.京都
[没]正治3(1201).1.25. 京都
平安時代後期~鎌倉時代初期の女流歌人。「しょくしないしんのう」とも読み,大炊御門 (おおいのみかど) 斎院,萱 (かやの) 斎院などとも呼ばれる。父は後白河天皇,母は大納言藤原季成の娘成子。平治1 (1159) 年賀茂斎院に任ぜられたが,嘉応1 (69) 年病のため退下,以後,前斎院として生涯独身で過した。その間,伯父藤原公光の解官,同母兄以仁 (もちひと) 王の平家への謀反と戦死などの不幸を体験,建久2 (91) 年頃出家し,法然に帰依した。同7年橘兼仲夫妻の謀計に連座,都から追放されそうになるなど,その生涯は不幸であった。和歌を藤原俊成に学び,憂愁に満ち,情熱を内に秘めた気品の高い作品を残した。家集『式子内親王集』は百首歌3編に勅撰集入集歌を添えたもの。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「式子内親王」の解説

式子内親王 しきしないしんのう

?-1201 平安後期-鎌倉時代,後白河天皇の第3皇女。
母は藤原成子(せいし)。平治(へいじ)元年(1159)賀茂斎院となるが,嘉応(かおう)元年病のためしりぞく。文治(ぶんじ)元年准三宮(じゅさんぐう)。のち出家,法名は承如法。藤原俊成(としなり)に和歌をまなび,新古今時代の代表的な歌人として知られる。家集に「式子内親王集」。正治(しょうじ)3年1月25日死去。名は「しょくし」ともよむ。通称は萱(かやの)斎院,大炊御門斎院。
【格言など】玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする(「小倉百人一首」)

式子内親王 しょくしないしんのう

しきしないしんのう

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旺文社日本史事典 三訂版 「式子内親王」の解説

式子内親王
しきしないしんのう

?〜1201
平安末期・鎌倉前期の女流歌人
後白河天皇の第3皇女。賀茂斎院 (さいいん) となり,のちに出家。特に恋歌にすぐれ,和泉式部以後の女流歌人の第一人者。歌は『千載 (せんざい) 和歌集』『新古今和歌集』にみえ,また家集『式子内親王集』がある。

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世界大百科事典(旧版)内の式子内親王の言及

【式子内親王】より

…《新古今集》には,女流歌人中最多の49首入ったが,《新勅撰集》以下の勅撰集にも97首入集。家集に《式子内親王集》がある。謡曲《定家葛》などには,藤原定家との恋愛関係が説話化されているが,事実ではない。…

【定家】より

金春(こんぱる)禅竹作か。シテは式子(しきし)内親王の霊。旅の僧(ワキ)が都の千本(せんぼん)の辺で時雨にあい,雨宿りをしていると,そこへ若い女(前ジテ)が現れて,ここは藤原定家(ふじわらのさだいえ)が建てた時雨の亭(しぐれのちん)だと教え,昔を懐かしむかにみえる。…

※「式子内親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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