日本大百科全書(ニッポニカ) 「印西派」の意味・わかりやすい解説
印西派
いんさいは
流祖を吉田一水軒(いっすいけん)印西(1562―1638)とする弓術流派の一つ。印西は近江(おうみ)国蒲生(がもう)郡葛巻(くずまき)の生まれであったことからその姓を葛巻といい、通称源八郎重氏(げんぱちろうしげうじ)、号を印西と称した。印西は吉田流本系の4代重綱(しげつな)の甥(おい)にあたり、その娘と結婚し吉田姓を名のったが、後に義父と不仲となったため、叔父(重綱の弟)で金沢で左近右衛門(さこんえもん)派をたて指導にあたっていた業茂(なりもち)を師として修業したのち、印西派を創始した。印西は関白豊臣秀次(とよとみひでつぐ)や結城秀康(ゆうきひでやす)(徳川家康の次男)の弓の師として奉仕したのち、京都伏見(ふしみ)に住み弓術の研鑽(けんさん)に努めた。その後家康の信を得、江戸幕府に禄仕(ろくし)し、2代秀忠・3代家光(いえみつ)の弓の師となり、将軍家の弓術師範家として迎えられた。また印西の嫡子重信(しげのぶ)も家光の指南役として600石を禄し栄えたが、代が下るに従い幕府における吉田家の存在は薄いものとなっていった。印西派はこの江戸本系のほかに、印西の三男重好(しげよし)(露水軒印貞(ろすいけんいんてい))が伝えた越前(えちぜん)系や、印西の弟定勝(さだかつ)や貞氏(さだうじ)から岡山や広島に伝えられ、さらには印西の甥重儀(しげのり)の系統が遠江(とおとうみ)横須賀や三河吉田にこれを広めた。その他高弟たちから水戸、会津、薩摩(さつま)、盛岡などの雄藩にも伝えられ定着した。
[入江康平]