千葉県北西部の市。2010年3月旧印西市が印旛(いんば),本埜(もとの)の2村を編入して成立した。人口8万8176(2010)。
印西市西部の旧市。1954年木下(きおろし)町,大森町などが合体,印西町となり,1996年市制。人口6万0060(2005)。利根川南岸にあり,市域は下総台地上に広がる。中世はこの地に印西荘があり,近世には木下河岸が利根川水運の要衝として栄えた。木下河岸は銚子往還の中継所で,銚子とは船で連絡し,江戸とは陸路で結ばれた。寛文年間(1661-73)には問屋場が設けられ,近世後期には年平均4000艘の船が出入りしたといわれる。また下流の香取神宮,鹿島神宮,息栖神社を回る三社参りの拠点でもあり,乗客船は茶船と呼ばれた。明治中期に鉄道(現,JR成田線)が開通して水運が衰えるとともに河岸も衰え,商圏は木下街道の宿場町であった大森に奪われた。1967年に南部の台地約1700haが千葉ニュータウンの開発区域に指定された。北総開発鉄道(現,北総鉄道)の開通に伴い,1980年代半ば以降急激に人口が増加している。千葉ニュータウン中央駅近くに東京基督教大学がある。木下から発作に至る木下化石帯と呼ばれる地層は地質学上有名である。
印西市南東部の旧村。旧印旛郡所属。人口1万2652(2005)。印旛沼北岸の台地上に位置する。1969年に印旛沼干拓事業が完成し,水田面積がふえた。農業の中心は米作で,畑地では野菜が生産される。印旛沼に三方を囲まれ,1960年代に印旛大橋,甚兵衛大橋が開通するまでは対岸の佐倉,成田との交通は不便だった。西部の台地の一部が千葉ニュータウンの開発区域に含まれ,北総開発鉄道(現,北総鉄道)の開通とあわせ開発が進められている。聖武天皇の勅願により開創されたといわれる松虫寺の七仏薬師如来,泉福寺の薬師堂は重要文化財に指定されている。
印西市北東部の旧村。旧印旛郡所属。人口8390(2005)。印旛沼の北岸にあり,村域の東部は利根川が洪水時に逆流してつくった逆三角州,西部は台地である。1670年(寛文10)新利根川開削の際,河川敷となる村落をこの地に移住させ,埜原新田14ヵ村が生まれた。利根川洪水の逆流を防止する印旛閘門や揚・排水機場が整備されて,安定した水田地域になっている。米作が主であるが,野菜栽培も行われる。台地西部は千葉ニュータウンの開発区域である。
執筆者:千葉 立也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
千葉県北部、利根(とね)川南岸に位置し、印旛(いんば)沼の低地と下総(しもうさ)台地に広がる市。1954年(昭和29)木下(きおろし)町、大森町、船穂(ふなほ)村と永治(えいじ)村の大部分が合併して印西町が成立。1996年(平成8)に市制施行。2010年(平成22)、印旛村、本埜村(もとのむら)を編入。地名は印旛沼の西にあることに由来。JR成田(なりた)線と国道356号、464号が通じる。南部の大規模な千葉ニュータウンを経て印旛日本医大駅まで北総鉄道(ほくそうてつどう)が通じ、同駅で京成成田空港線に連絡する。中心市街地の木下は江戸時代、利根水運の重要な河港で、船頭宿、酒屋、芸者置屋などが軒を並べていた。近世より進められてきた印旛沼の干拓事業は、1969年水資源開発公団(現、水資源機構)によって完了。現在、沼は印旛捷水(しょうすい)路で結ばれる2沼に分かれている。農村地帯で米作を中心に野菜、イチゴなどの生産が行われている。国指定重要文化財に茅葺(かやぶ)きの宝珠院観音堂(ほうじゅいんかんのんどう)や結縁寺(けちえんじ)銅造不動明王立像、栄福寺(えいふくじ)薬師堂などがある。鳥見(とりみ)神社の神楽(かぐら)、鳥見(とみ)神社の獅子舞(ししまい)、浦部神楽(かぐら)などが県無形民俗文化財に指定されている。面積123.79平方キロメートル、人口10万2609(2020)。
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