原井村(読み)はらいむら

日本歴史地名大系 「原井村」の解説

原井村
はらいむら

[現在地名]浜田市原井町・真光町しんこうちよう清水町しみずちよう瀬戸見町せとみちよう野原町のばらちよう瀬戸せと島町しまちよう港町みなとまち大辻町おおつじちよう元浜町もとはまちよう栄町さかえまち笠柄町かさがらちよう高田町たかだちよう

浜田城下(浜田八町)を包み込むように村域が広がり、西は浜田湾に面する。東は黒川くろかわ村、南は熱田あつた村・内田村うちだむら。城下町の発展により村内には家中屋敷・町家・農家が混在した。戦国期は小石見こいわみ郷のうちで、大永六年(一五二六)一一月五日に小石見郷の領主三隅興兼が「小石見郷神主所」宛に出した願文(「江木家系譜」江木家蔵)に「御八幡原井」とみえ、久米山くめやま八幡宮など五社に対し戦勝祈願に合せて田地を寄進している。

元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高七六二石余、年貢高は田方一九二石余・畑方三二九石余。同年の古田領小物成帳には原井村長役として銀五〇〇目を記す。正保四年(一六四七)の古田領郷帳には高七六二石余のほか、観音院分(出水地堤とも)として八斗余、下古馬場亥より起方一反三畝分として一石余、亥より改出分(鍛冶屋屋敷とも)として二石六斗余があり、都合七六七石余。同高から浜田古町屋敷一八七石余(銀一貫六一五匁余)新町屋敷九〇石四斗余(銀二貫一八八匁余)・奉公人屋敷分(寺屋敷とも)三九石六斗余・日用町屋敷四石八斗余(銀一八九匁余)・極楽寺領五石・地久ちきゆう寺領一〇石・永否川成道土手堤引四五石九斗余・墓所九斗余・溝代永引九斗余・代官屋敷引七斗余、当日損一四石三斗余が引かれ、有高は三六六石余(免五ツ六分)であった。


原井村
ばらいむら

[現在地名]妻沼町原井

八木田やぎた村の枝郷。利根川右岸の氾濫原に位置し、東は江袋えぶくろ村、西は下増田しもますだ(現熊谷市)、北は丈方じようほう(福川)を境にどう谷戸やと村。元禄(一六八八―一七〇四)以前に八木田村から分村したとみられ、元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳では八木田村枝郷と注記され高一〇〇石、旗本玉虫・天野の二家の相給。


原井村
はらいむら

[現在地名]大平村原井

東下ひがししも村・百留ひやくどみ村の南に位置し、山国やまくに川左岸の河岸段丘上に立地する。弘安九年(一二八六)閏一二月二八日の蒙古合戦并岩門合戦勲功地配分注文(比志島文書/鎌倉遺文二一)によると、金田時通跡の「上毛(郡)内原井村」が宇都宮通房(薩摩前司入道尊覚)に宛行われている。江戸時代の領主の変遷下唐原しもとうばる村に同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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