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吉川元春 きっかわ もとはる

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美術人名辞典の解説

吉川元春

公卿。毛利元就の次男。治部少輔・駿河守を務める。天正14年(1586)歿、57才。

出典|(株)思文閣
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デジタル大辞泉の解説

きっかわ‐もとはる〔キツかは‐〕【吉川元春】

[1530~1586]戦国時代の武将。駿河守(するがのかみ)。毛利元就(もうりもとなり)の次男。従兄の吉川興経(おきつね)の養子。弟の小早川隆景(こばやかわたかかげ)とともに毛利氏の中国平定に尽力。豊臣秀吉に従って九州侵攻に参加、陣中で死亡。

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百科事典マイペディアの解説

吉川元春【きっかわもとはる】

戦国時代の武将。毛利元就(もとなり)の次男。安芸(あき)国北部から石見(いわみ)に力を持っていた吉川興経(おきつね)の養嗣子となり1547年家督を継ぐ。毛利氏の勢力拡大に弟小早川隆景(たかかげ)とともに宗家毛利氏を支援,川の字が共通するところから〈毛利両川(りょうせん)〉といわれた。
→関連項目吉川氏毛利輝元瑠璃光寺

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

吉川元春 きっかわ-もとはる

1530-1586 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)3年生まれ。毛利元就(もとなり)の次男。吉川興経(おきつね)の養子となり天文(てんぶん)19年安芸(あき)(広島県)日野山城主。尼子氏を討つなど山陰で勢力を拡大,山陽で活躍した弟小早川隆景(こばやかわ-たかかげ)とともに毛利の両川(りょうせん)といわれ,毛利氏の中国地方制覇につくす。天正(てんしょう)14年11月15日九州攻めの際,豊前(ぶぜん)小倉城(福岡県)内で病死。57歳。
【格言など】智少なく勇のみある者は,単騎の役にして大将の器にあらず

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朝日日本歴史人物事典の解説

吉川元春

没年:天正14.11.15(1586.12.25)
生年:享禄3(1530)
戦国時代の武将。毛利元就の次男,母は吉川氏。少輔次郎,治部少輔,駿河守と称した。天文16(1547)年,安芸国大朝荘(広島県山県郡大朝町)を本拠に芸北から石見国に勢力を有していた吉川興経の養子となり,同年家督を相続。兄毛利隆元,弟小早川隆景と共に,父元就を助けて各地に転戦。弘治2(1556)年以後,一族が多く,つながりも深い石見国の経略を任され,毛利氏の山陰地方制圧に基礎を築いた。元春が山陰方面,隆景が山陽方面の軍事を担当するいわゆる「毛利両川」体制はこのころに成立。永禄5(1562)年から同9年にかけて,父と共に出雲尼子義久を富田(月山)城に攻めてこれを下し,同11年には隆景と共に伊予河野通直の救援に駆けつけ,大洲城(愛媛県大洲市)に宇都宮豊綱を下した。翌年,筑前立花城(福岡県粕屋町)で大友氏と交戦中,山中鹿介幸盛が尼子勝久を奉じて出雲に侵入したため,急遽軍を返し,元亀1(1570)年これを敗走させた。同2年に元就が死ぬと隆景と共に毛利家家督輝元を補佐し,伯耆・因幡方面からの東上策を進めた。天正6(1578)年,織田氏の援助のもと播磨上月城(兵庫県佐用郡上月町)に立てこもった勝久を滅ぼすが,同9年,吉川経家を守将に配した鳥取城が羽柴(豊臣)秀吉軍に落され,翌年秀吉との講和を余儀なくされた。同年,家督を子元長に譲って隠退。同14年,秀吉の強い意向を受けて九州に出征し,豊前小倉の陣中に没。<参考文献>瀬川秀雄『吉川元春』,『吉川元春卿伝』

(井上寛司)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

きっかわもとはる【吉川元春】

1530‐86(享禄3‐天正14)
戦国時代の武将。毛利元就の次男。初め少輔次郎,1549年(天文18)吉川氏を相続して治部少輔,のち駿河守。元就没後も甥輝元を補佐して宗家毛利氏の中国平定に尽力し,尼子平定など山陰経略の中心として,山陽を分掌した弟小早川隆景とともに〈毛利の両川〉とうたわれた。82年羽柴秀吉との高松講和後,長子元長に家督を譲り隠退したが,秀吉の求めにより九州征伐に参陣中,小倉城で病没した。【加藤 益幹】

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大辞林 第三版の解説

きっかわもとはる【吉川元春】

1530~1586) 戦国時代の武将。毛利元就もとなりの子。従兄吉川興経おきつねの養子。山陰の尼子氏を平定、山陽を分掌した。弟小早川隆景と協力し、毛利氏の中国地方経略に貢献。

出典|三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

吉川元春
きっかわもとはる

[生]享禄3(1530)
[没]天正14(1586).11.15. 豊前,小倉
安土桃山時代の武将。毛利元就の次男。母は吉川国経の娘。天文 16 (1547) 年外戚吉川興経の養子となり,同 18年家を継いだ。弘治1 (55) 年陶晴賢を滅ぼした厳島の戦いをはじめ,尼子氏征討など本家毛利氏を助けて諸方面に歴戦したが,特に山陰の経略に軍功を立て,小早川家を継いで山陽に活躍した弟隆景とともに「毛利の両川」とうたわれた。毛利氏の中国平定にはこの2人の功績がすこぶる大きい。天正 10 (82) 年毛利氏は豊臣秀吉に屈したが,秀吉に服属することを嫌った元春は同年隠居した。しかし本家の輝元らの要請で秀吉の九州征伐に参加し,陣中で没した。 (→吉川氏 )  

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

吉川元春
きっかわもとはる
(1530―1586)

戦国末期・安土(あづち)桃山時代の武将。毛利元就(もうりもとなり)の二男、母は吉川国経(くにつね)の女(むすめ)。少輔次郎(しょうじろう)、治部(じぶ)少輔、駿河守(するがのかみ)と称した。1547年(天文16)安芸(あき)国大朝新庄(おおあさしんじょう)の吉川興経(おきつね)の養子とされ、弟の小早川隆景(こばやかわたかかげ)とともに毛利氏勢力の一翼として中国地方の経略に活躍し、世に「毛利氏の両川」と称された。ことに山陰方面に対する征略には元春が主力となり、56年(弘治2)以来石見(いわみ)国に出征、62年(永禄5)より尼子(あまご)氏の本拠出雲(いずも)国を攻め、66年富田(とだ)城を陥れて尼子氏を降し、81年(天正9)には因幡(いなば)国で羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉の軍と戦った。翌年、備中(びっちゅう)国高松城の戦いで毛利輝元(てるもと)が秀吉と和平ののち、織田信長の死を知るや元春は追撃を主張したが隆景らに止められ、秀吉政権の下にたつのを喜ばず同年隠居した。輝元の願いで秀吉の九州征服に参加、小倉(こくら)(北九州市)で陣没した。勇猛の半面、文才もあり、出雲の陣中で書写した『太平記』44巻が伝わる。[福尾猛市郎]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の吉川元春の言及

【南条踊】より

…室町時代末期に盂蘭盆会(うらぼんえ)の踊りとして流行した風流踊は,若者が仮装して踊るのが特色の一つであり,戦国武将の敵城侵入の手段に用いられたと伝える。南条踊も大朝町新庄の地に居城した吉川(きつかわ)元春が,天正年間(1573‐92)伯耆(ほうき)の南条元次を攻略するときにこの手段を用い,踊子を城内に送って勝利をおさめたという。以来,その踊りが虫送りの行事と結びついて伝承された。…

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