精選版 日本国語大辞典 「吉川元春」の意味・読み・例文・類語
きっかわ‐もとはる【吉川元春】
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(井上寛司)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
戦国末期・安土(あづち)桃山時代の武将。毛利元就(もうりもとなり)の二男、母は吉川国経(くにつね)の女(むすめ)。少輔次郎(しょうじろう)、治部(じぶ)少輔、駿河守(するがのかみ)と称した。1547年(天文16)安芸(あき)国大朝新庄(おおあさしんじょう)の吉川興経(おきつね)の養子とされ、弟の小早川隆景(こばやかわたかかげ)とともに毛利氏勢力の一翼として中国地方の経略に活躍し、世に「毛利氏の両川」と称された。ことに山陰方面に対する征略には元春が主力となり、56年(弘治2)以来石見(いわみ)国に出征、62年(永禄5)より尼子(あまご)氏の本拠出雲(いずも)国を攻め、66年富田(とだ)城を陥れて尼子氏を降し、81年(天正9)には因幡(いなば)国で羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉の軍と戦った。翌年、備中(びっちゅう)国高松城の戦いで毛利輝元(てるもと)が秀吉と和平ののち、織田信長の死を知るや元春は追撃を主張したが隆景らに止められ、秀吉政権の下にたつのを喜ばず同年隠居した。輝元の願いで秀吉の九州征服に参加、小倉(こくら)(北九州市)で陣没した。勇猛の半面、文才もあり、出雲の陣中で書写した『太平記』44巻が伝わる。
[福尾猛市郎]
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戦国時代の武将。毛利元就の次男。初め少輔次郎,1549年(天文18)吉川氏を相続して治部少輔,のち駿河守。元就没後も甥輝元を補佐して宗家毛利氏の中国平定に尽力し,尼子平定など山陰経略の中心として,山陽を分掌した弟小早川隆景とともに〈毛利の両川〉とうたわれた。82年羽柴秀吉との高松講和後に,長子元長に家督を譲って一度は隠退したが,秀吉の求めにより九州征伐に参陣中,小倉城で病没した。
執筆者:加藤 益幹
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1530~86.11.15
戦国期~織豊期の武将。毛利元就(もとなり)の子。毛利氏の部将として活躍。1550年(天文19)安芸国吉川氏を継承したが,以後も父元就・兄隆元に協力して毛利氏の運営に参画。71年(元亀2)元就の死後は,弟小早川隆景とともに若年の毛利輝元を補佐。この間おもに山陰方面の経略を担当。ついで織田信長軍と戦ったが,82年(天正10)講和成立ののち隠退。86年豊臣秀吉の九州出兵に参加し,豊前国小倉で病死。
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…室町時代末期に盂蘭盆会(うらぼんえ)の踊りとして流行した風流踊は,若者が仮装して踊るのが特色の一つであり,戦国武将の敵城侵入の手段に用いられたと伝える。南条踊も大朝町新庄の地に居城した吉川(きつかわ)元春が,天正年間(1573‐92)伯耆(ほうき)の南条元次を攻略するときにこの手段を用い,踊子を城内に送って勝利をおさめたという。以来,その踊りが虫送りの行事と結びついて伝承された。…
※「吉川元春」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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