浜田城下(読み)はまだじようか

日本歴史地名大系 「浜田城下」の解説

浜田城下
はまだじようか

元和五年(一六一九)古田氏が入部して築いた浜田藩城下町。浜田川が日本海に注ぐ河口に形成された狭小な沖積平野にある。南の三階さんがい(三七八・八メートル)から派生する丘陵と浜田川に挟まれた低地がほぼ東西に広がり、東は低丘陵で、西は日本海に面する。古くから日本海に面して湊が開けていたほか、山陰道が通り、浜田川に沿って石見安芸道も延びていた。伝承によると、浜田の地名は一一世紀前半に中納言常方卿が浜であったところに田を開いたことにより名が付けられたという。

〔中世〕

小石見こいわみ郷のうち。嘉吉三年(一四四三)から文安元年(一四四四)の間に書写されたといわれる現浜田市大辻おおつじ町の宝福ほうふく寺所蔵の大般若経奥書に「那賀郡小石見郷浜田村」とみえる。明代の一五七七年成立の「図書編」には石見五港として番馬塔(浜田)などがみえ、古くから石見国内の重要な港町として都市的発展を遂げていたと推定される。戦国期末には吉川元春・仁保元棟が毛利元就から小石見郷を任され、浜田町を支配することとなった(推定元亀二年一月一九日「毛利元就書状」閥閲録)。「中書家久公御上京日記」によれば、天正三年(一五七五)六月二七日から七月一〇日まで京都からの帰途の島津家久が浜田に滞在している。船によって当地に至った家久は、大賀次良左衛門家に宿をとり、浜田に入港していた薩摩・大隅両国の加治木衆・鹿児島衆・伊集院衆・坊津衆と宴会を開いたり、浜田の町見物をしたり、風呂に入ったりしており、当地の港町としての賑いがうかがわれる。市も立ち、水陸の要地として中世には周辺の丘陵各所に砦が築かれていた。なお浜田城の外曲輪に残っていた葭沼や河口左岸の沼湿地帯から氾濫による浜田川の河道の変遷があったとの説もある。

〔近世の城下町の形成と発展〕

浜田初代藩主古田重治はかめ山に築城するにあたって浜田川右岸の浅井あさい川と松原まつばら湾に囲まれた地域を郭内とし、浜田川左岸、三重さんじよう川から西の平坦地を町家とする町割を計画し、原井はらい村の中で山陰道に沿って家並を形成していたところを町方として分離した。そのため浜田八町といわれる町方の周囲には母体であった原井村分が残り、入組んでいた。町方西部のつじ町・檜物屋ひものや町付近は中世末には問屋などの有力商人が居住し、水陸交易に従事して小野おのの市場とよばれていたという(浜田町史)。浜田城に通じる町方東端の三重口から紺屋こんや町・しん町・蛭子えびす町・かどつじ町・檜物屋町・はら町を経て町方南西端の青口あおぐち番所までの道のりは一三町であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の浜田城下の言及

【浜田[市]】より

…山陰本線,国道9号線が通じる。【池田 善昭】
[浜田城下]
 石見国の城下町。1543年(天文12)毛利氏は一族の繁沢元氏を那賀郡浜田の夕日ヶ丘において石見支配の一拠点とした。…

※「浜田城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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