日本歴史地名大系 「原町市」の解説 原町市はらまちし 面積:一九八・〇四平方キロ福島県の北東部、太平洋沿岸部の浜通り北部に位置し、地形的には阿武隈高地北部東縁にあたる。北は丘陵地を隔てて相馬郡鹿島(かしま)町、西は阿武隈高地に含まれる同郡飯舘(いいたて)村・双葉郡浪江(なみえ)町、南は丘陵地を隔てて相馬郡小高(おだか)町に接し、東は太平洋に臨む。市域は準平原化した阿武隈高地と、ほぼ東流する新田(にいだ)川・太田(おおた)川の沖積地および扇状地に発達し、市街南西には相馬野馬追で知られる雲雀(ひばり)ヶ原(野馬追原)が広がる。東部を国道六号とJR常磐線が南北に走り、同線には原ノ町と磐城太田(いわきおおた)の二駅がある。また西の阿武隈高地の麓を県道相馬―浪江線が南北に走り、国道六号から西へは同高地を越えて福島市方面へ向かう県道原町―川俣(かわまた)線が通じている。原町の由来は、野馬追原の一画に形成された町場の意と考えられる。江戸時代には浜街道の宿駅原町(はらのまち)宿として知られ、天明八年(一七八八)一〇月、古河古松軒は「東遊雑記」に「六日中村城下出立、四里余原町」と記している。〔原始・古代〕旧石器時代の遺跡は橋本(はしもと)町の橋本A遺跡が確認されている。縄文遺跡は八重米坂(やえごめざか)A・滝の原(たきのはら)・羽山(はやま)・石倉(いしくら)・市渡戸(いちわたりと)など多数が確認されており、なかでも馬場(ばば)の滝の原遺跡からは前期初頭の関東関山式とやや異なるが花積下層式土器に類似する土器や打製石斧・局部磨製石斧が出土。片倉(かたくら)の八重米坂A遺跡では早期後半から前期前葉の住居群が確認されている。弥生遺跡も桜井(さくらい)・川内(かわうちさく)・原山(はらやま)など多数が確認されており、そのうち桜井式土器の標式遺跡として知られる桜井遺跡はとくに有名。古墳時代の遺跡としては、桜井古墳群のうちの渋佐(しぶさ)一号墳(五世紀の築造とされる前方後方墳で、桜井古墳として国指定史跡)、および装飾壁画に特色をもつ七世紀前半の羽山装飾横穴が著名。なお新田川・太田川、および鹿島町域の真野(まの)川が太平洋に注ぐ原野の流域に残る桜井古墳群や鹿島町の真野古墳群などの存在から、六世紀末までに新しい文化の繁栄と在地首長の成長をうかがうことができる。大化(六四五―六五〇)以前の市域は「旧事本紀」所収の「国造本紀」にみえる浮田国造の支配下にあったとみられる。その後、陸奥国行方(なめかた)郡の所属となり、養老二年(七一八)五月二日に同郡など六郡をもって石城(いわき)国が設置されたが(続日本紀)、同国はまもなく廃止されたようで、行方郡は再び陸奥国の所属となった。明治二九年(一八九六)行方郡と宇多(うだ)郡が合併して相馬郡が成立するが、この時まで市域は行方郡に所属していた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by