中村城下(読み)なかむらじようか

日本歴史地名大系 「中村城下」の解説

中村城下
なかむらじようか

[現在地名]相馬市中村・中野なかの西山にしやま

北東流する宇多うだ川の北岸を中心に形成された相馬藩中村城(馬陵城)城下町。同城は丘陵にあたるが、城下は平坦地に位置する。近世の郷帳類などでは中村として扱われ、宇多川南岸の中野村の一部と中村城西方の西山村東端部も城下に含まれていた。元禄一二年(一六九九)八月に城下は奥州相馬中村と唱えられることになった(「相馬藩御経済略記」福島県史)。同一五年のものとされる相馬中村城下絵図(佐藤家蔵)は、中村城および城下の通り・町割などの全容を示す。

〔城下の形成〕

相馬藩主相馬利胤は江戸初期に行方なめかた小高おだか郷の小高城(現小高町)を居城としていたが、慶長一六年(一六一一)中村城を築城し、宇多郡宇多郷中村をその城下とした。築城工事とともに城下の町割を進めているが、それは天下統一の過程で行われた兵農分離と並ぶ商農分離の一環をなすもので、武家の屋敷とともに商工業者の居住地も計画的に配置され、武士の消費生活や藩内農民の需要をまかなうことになった。町割工事は、同一七年に木幡太郎右衛門と岡田又左衛門を奉行として開始されたが(相馬市史)、城のすぐ南を流れていた宇多川をほぼ現在の流路に付替え、基本的には西山村を含む城下の西部に城を囲むようなかたちで武家屋敷を配し、東部に商工業者を配置するように計画された。

まず本丸を中心に、東と西と南と北に二の丸、東・西・北に三の丸を置き、その南と東に同心円を描くように重臣・大身から中身・小身、徒士・同身(同心)小人に至るまでの武家の屋敷町が設けられ、やがて宇多川北岸沿いと同川を挟んだ対岸の中野村の西部にまで武家の屋敷町が延びていった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報