相馬義胤(読み)そうまよしたね

改訂新版 世界大百科事典 「相馬義胤」の意味・わかりやすい解説

相馬義胤 (そうまよしたね)
生没年:1548-1635(天文17-寛永12)

安土桃山・江戸初期の武将陸奥国小高(おだか)城主。長門守。相馬盛胤の子。1578年(天正6)家督を相続し,伊達氏抗争ののち,90年小田原に参陣して豊臣秀吉に従い本領安堵された。関ヶ原の戦不参のかどでいったんは徳川家康に本領を没収されたがまもなく安堵され,宇多・行方(なめかた)・標葉(しねは)3郡に6万石を領した。嫡子利胤の死後,孫義胤(虎之助)を助けて再び政治をとり,中村藩基礎をすえた。墓所は福島県南相馬市の旧小高町同慶寺。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「相馬義胤」の解説

相馬義胤(2) そうま-よしたね

1548-1635 織豊-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)17年生まれ。相馬盛胤(もりたね)の子。相馬氏16代。陸奥(むつ)中村藩(福島県)の祖。豊臣秀吉の小田原攻めに参陣,本領を安堵(あんど)される。関ケ原の戦いには参陣せず,徳川家康より一時所領を没収されたが,その子利胤が本領を安堵された。寛永12年11月16日死去。88歳。通称孫次郎

相馬義胤(1) そうま-よしたね

?-? 鎌倉時代の武将。
相馬師常(もろつね)の子。将軍源実朝(さねとも),九条頼経(よりつね)につかえる。元久2年(1205)北条義時(よしとき)に属し畠山重忠(しげただ)追討に功をたてた。同年父の死によって下総(しもうさ)相馬郡と,陸奥(むつ)行方(なめかた)郡の所領をつぐ。安貞元年(1227)所領の一部を娘にあたえた。

相馬義胤(3) そうま-よしたね

1620-1651 江戸時代前期の大名
元和(げんな)6年5月生まれ。相馬利胤(としたね)の子。父の死により寛永2年陸奥(むつ)中村藩(福島県)藩主相馬家2代となる。祖父義胤が後見。2度の総検地をおこなって全領地高6万石とし,藩政の基礎をつくった。慶安4年3月5日死去。32歳。通称は虎之助。

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世界大百科事典(旧版)内の相馬義胤の言及

【相馬氏】より

…中・近世,下総・陸奥の武家。桓武平氏の流れをくみ,平将門の後裔と伝えられるが,直接の祖は千葉氏の祖常胤(つねたね)の次男師常(もろつね)。千葉六党の一つ。師常は下総国相馬郡を領して相馬氏を称したが,1189年(文治5)の奥州平泉討伐の功によって陸奥国行方(なめかた)郡を与えられたという。その後,胤村の五男師胤が行方郡の所領を譲られ,その子重胤が1323年(元亨3)に一族とともに行方郡に下向して奥州相馬氏をおこした。…

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