日本歴史地名大系 「古府村」の解説 古府村こふむら 富山県:高岡市旧射水郡小矢部川左岸地区古府村[現在地名]高岡市伏木古府(ふしきこふ)一―三丁目・伏木古府元町(ふしきこふもとまち)・伏木矢田上町(ふしきやたかみまち)・伏木古府射水川(現小矢部川)下流、二上(ふたがみ)山麓の東方、古国府(ふるこ)の南方に位置。古代射水郡府(郡衙)の所在地で、越中国府に対して郡府を小府とよび、この小府が古府となったという(越中志徴)。字御亭角(おちんかど)から重弧文軒平瓦等が発掘され、飛鳥―白鳳時代の御亭角廃寺で、射水臣氏の氏寺であったと考えられている(→越中国府跡)。天正一六年(一五八八)前田利長が古国府で検地を行い、一〇〇俵(五〇石)の地を勝興(しようこう)寺に寄進したが、その際残りの地区で当村が村立てされた(越中志徴)。さらに元和四年(一六一八)前田利常が勝興寺に二五石を与え、当村域における同寺の拝領高は七五石となった(「利常朱印状」勝興寺文書)。 古府村ふるこむら 石川県:七尾市古府村[現在地名]七尾市古府町・栄町(さかえまち)・南(みなみ)ヶ丘町(おかまち)石動(せきどう)山系西側麓から邑知(おうち)地溝帯に傾斜する台地上に位置し、藤野(ふじの)村・後畠(うしろばたけ)村の西にある。地名は能登国府が所在したことに由来するともいう(鹿島郡誌)。内浦街道が通り垣内に上出(かみで)・下出・川原(かわら)がある。古くは古符とも記された。天正五年(一五七七)一一月一日の免田指出案(気多大宮司家文書)に「ふるこう」とみえ、一宮気多社神官方に毎年五俵が定納されている。古符には気多社大宮司の知行分として、屋敷地一ヵ所と神田一〇〇刈があり、地子三〇〇文と米六俵の負担分が定められていた。小字神明口にも馬草田(畑)があり、米四俵(畑地子五〇〇文)が納められ、ともに馬太郎の沙汰分であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by