伏木湊(読み)ふしきみなと

日本歴史地名大系 「伏木湊」の解説

伏木湊
ふしきみなと

[現在地名]高岡市伏木湊町

射水川(現小矢部川)河口左岸に立地。射水湊とも称された。沖合には「あいがめ」とよばれる深澗が広がり、船の出入りが容易で、近世中期以降大いに栄えた。古代には「延喜式」にみえる曰理わたり湊が国府の湊として伏木台地にあったとされ、米や鮭等が敦賀つるが(現福井県敦賀市)を経て京都に運ばれていた。中世に入り海退期を迎え、湊としての機能は放生津ほうじようづ(現新湊市)へ移った。交通の要衝として伏木が史料に表れるのは天正四年(一五七六)で、上杉謙信が越中を支配するにあたって伏木浜での船の用所を申付けている(「鰺坂・河田覚書」鞍馬寺文書)。慶長二〇年(一六一五)には伏木村の船持一二名に五―八人乗りの佐渡行き商用船一三艘の渡航が許されており(「佐渡行商売船出船申渡書」藤井家文書)、伏木湊は藩が定めた川西七浦の一つであった。元和三年(一六一七)前田利常から船役の納入および他国船からの澗役の徴収が命じられ、伏木村では明暦二年(一六五六)に外海船櫂役四三七匁・澗役一八二匁を小物成として上納した(村御印留)。澗改所は射水川河口近くの浜往来沿いにあり(「庄川河口付近絵図」高樹文庫)、澗改棟取・澗改人・伏木村肝煎・組合頭・算用聞が詰めており、洩物改役や船見人などの浦役人も浦取締にあたった。湊では津留により船荷が吟味された。享保九年(一七二四)伏木浦役人は出入りする諸荷物の改口銭の取立てを願出て許可を受け(「伏木浦旧記」越中古文書)、同一八年には藩から外海船等の船改を強化するため六項目の諸廻船改方が申渡された(「湊縮方書上申帳」藤井家文書)。伏木御蔵前には高札場が設けられ、寛文六年(一六六六)の難船取扱高札や正徳四年(一七一四)の抜荷取締高札など一〇枚の浦高札があった。延享元年(一七四四)小矢部川・千保せんぼ川の舟運の管理・支配権を掌握していた高岡の町と、外海船の直登りをめぐって争論となり、外海船荷物はすべて伏木浦で長船に積替えるが、木町外海船に限り直登りを許すという裁定が下された(「両浦出入に付申渡書」木町文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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