古野村(読み)ふるのむら

日本歴史地名大系 「古野村」の解説

古野村
ふるのむら

[現在地名]河内長野市古野町・西代にしだい町・本多ほんだ町・さかえ町・ほん町・菊水きくすい町・長野ながの

石川左岸の高位河岸段丘上にある。東は長野村。村内を西高野街道が南北に通る。明治二九年(一八九六)河陽鉄道の起工までは瓢形の五の木ごのき古墳があったが、工事によって破壊された。このとき刀剣土器などとともに「古野郷」と刻した自然石が出土したという(大阪府全志)正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高一四六石余、元文二年(一七三七)の河内国高帳は一四七石余。領主の変遷はいち村に同じ。嘉永三年(一八五〇)の田方綿作高二石・畑方綿作高四一石余(滋賀県庁文書)


古野村
このむら

[現在地名]多度町古野

猪飼いかい村から肱江ひじえ川をさかのぼり、員弁いなべ街道に沿って東西に長く分布する谷間の村で、西からむかい奥条おくじよう南条みなみじよう大畑おおはたしもひらの各集落からなっている。

近世を通じて桑名藩領。文政七年(一八二四)戸数一二九、人数五二七、牛五一。畑作には麦・稗・大豆・綿があり、猪・鹿の害が多かった。明治一六年(一八八三)の戸数一四六、人数六三〇(桑名郡志)


古野村
このむら

[現在地名]秋田市上北手古野かみきたてこの

大山田おおやまだ村の南。羽州街道から一八町東に入る山間の集落。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に古野新田村九四石とみえるが、享保一四年(一七二九)の河辺郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に正保には「誤新田」として記したとあり、それ以前からの村である。「六郡郡邑記」に「古野こうの村 十二軒。大繋村八軒、後古野村九軒、鳥越村三軒」とあり、猿田さるた川上流の山間に支郷が散在した。文化(一八〇四―一八)頃の「六郡郷村誌略」に「高百二十七石四斗、免五ツ二歩、田水沢川、家居三十戸、人百六十口、馬三十頭」とあり、藩政期を通じて村高の増加はみられるが、戸数に変化はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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