日本歴史地名大系 「河内長野市」の解説 河内長野市かわちながのし 面積:一〇九・六〇平方キロ大阪府南東部に位置し、北は南河内郡狭山(さやま)町、北から東は富田林(とんだばやし)市、東は南河内郡千早赤阪(ちはやあかさか)村、南東は奈良県五條(ごじよう)市、南は和泉山脈の稜線で和歌山県橋本(はしもと)市・同伊都(いと)郡高野口(こうやぐち)町・同かつらぎ町、西は山の尾根で和泉市、北西は堺市に接する。東の金剛山地、南の和泉山脈に囲まれ、面積の七割を山間部で占める。金剛山地中五條市との境に神福(じんぷく)山(七九二メートル)、和泉山脈に岩湧(いわわき)山(八九七・七メートル)、かつらぎ町境に燈明(とうみよう)岳(八五七メートル)、かつらぎ町・和泉市との境に三国(みくに)山(八八五・七メートル)がある。橋本市にまたがる紀見(きみ)峠付近に源を発した天見(あまみ)川が北流し、西から流れ込む加賀田(かがた)川、東からの石見(いしみ)川を合せ、市域北部で北東流してきた石川に合流する。北西部には西除(にしよけ)川(源流近くは天野川)が流れる。北部で堺市と五條市を結ぶ国道三一〇号、橋本市に通じる国道三七一号、和泉市に通じる国道一七〇号が交差し、南海電鉄高野線・近鉄長野線が通る。山地が多いため、谷が交通や住民の共同体意識のうえに大きな影響を及ぼしている。市域には東から川上(かわかみ)谷・天見谷・加賀田谷・滝畑(たきのはた)谷・天野(あまの)谷がある。川上谷は長野(ながの)谷(文禄四年二月八日「寺本西寺本両村地下契状」観心寺文書)・石見川(いしみがわ)谷(安政五年頃の辻野家文書)ともよばれた。川上谷には石見川が流れ、長野村から観心(かんしん)寺を経て大和五条(ごじよう)に越える大沢(おおさわ)道(ほぼ国道三一〇号にあたる)がある。天見谷には天見川が流れ、高野街道(国道三七一号)が通り、紀見峠を越えて紀伊国に入る。加賀田谷には加賀田川が流れ、加賀田村の北で高野街道と分れ、岩湧寺へ至り、さらに紀伊国に越える道がある。滝畑谷には石川が流れ、長野村から滝畑村を経て、蔵王(ざおう)峠より紀伊国へ行く紀州道(府道河内長野―葛城線・同堺―葛城線)がある。天野谷には天野川が流れ、長野村より天野山金剛(こんごう)寺の門前を西へ向かい、和泉国の南面利(なめり)(現和泉市)へ出、宇多大津(うだおおつ)村(現泉大津市)に至る天野街道(国道一七〇号)が通る。天野街道は巡礼道・河泉(かせん)街道・和泉道とよばれるが、元禄四年(一六九一)の文書(膳所藩資料館蔵)に泉州道と記される。市域の幹線道路は高野街道で、生駒山地の西麓に沿った東高野街道(国道一七〇号)と、堺を基点とする西高野街道(国道三一〇号)が長野神社の北で合流し、高野街道となった。平安時代から高野詣に利用され、今でも一里ごとに「高野山女人堂江八里」というような安政(一八五四―六〇)頃の道標が残る。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「河内長野市」の意味・わかりやすい解説 河内長野〔市〕かわちながの 大阪府南東部,和泉山脈の北麓,金剛山地の西麓に位置する市。 1954年長野町と三日市村,高向村 (たこうむら) ,加賀田村,天見村,川上村の5村が合体して市制。中心市街地の長野と三日市は高野街道の主要な宿場町として発達。周辺の農山村を後背地とする交易地でもあった。伝統工業の可鍛鋳鉄が行なわれるほか,すだれ,爪楊枝などを特産。第2次世界大戦後,ベアリング,鋼管などの工場が進出した。 1965年頃から宅地開発が著しく,大阪市,堺市のベッドタウンとなっている。南北朝時代の南朝ゆかりの観心寺,金剛寺,河合寺,延命寺などの古刹があり,観心寺,金剛寺はそれぞれ国宝の書や工芸品を所蔵,境内は国の史跡に指定されている。 1990年北部の南花台に大阪府立花の文化園が開園した。南部の高野街道沿いの天見はかつては高野山参詣者の宿泊地,天見温泉がある。市域の南東部から南西部の山麓一帯は金剛生駒紀泉国定公園に属する。南海電気鉄道高野線がほぼ中央を走り,河内長野駅は近畿日本鉄道長野線の終点。国道 371号線 (高野街道) ,310号線が市域を縦断し,170号線が北部を横断する。面積 109.63km2。人口 10万1692(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by